4.ATHENA


「気が済んだか?」

 不意に静かな声が響く。盟はゆっくりと顔を上げた。

「・・・ああ。礼を言う」
「・・・・・ふん。兄弟の絆か。感傷的なことだ」

 銀髪の少年を見返す瞳は、闇よりもなお暗い宇宙の
深淵の色。

「・・・あんたらには、ないのかよ?」
「あるわけがなかろう。我らの間に、親子や兄弟の絆
などない。ハーデスとアテナがどういう関係か、知らぬ
訳もあるまい?」

 冥王ハーデスは、アテナの父・大神ゼウスの兄に
当たる。
 すなわち、

「伯父と姪・・・・・」

 字面にすると何だかすごい。

「下らぬ。そのようなしがらみに心を縛られるなど愚か
なことだ」
「あんたに分からなくてもいいよ。そいつは分かってるから」

 吹っ切ったように言い切ると、盟は立ち上がった。

「・・・・何をするつもりだ」
「ハーデス。この結界、解いてくれ」
「何?」
「俺も戦う」
「・・・馬鹿な!」
「アテナが戦っているのだろう。俺だけ隠れていられ
ない。出せよ」
「神と神との戦いに、人の身で加わって何が出来る。
せっかく拾った命を自ら捨てる気か」
「・・・・・構わない! 俺はもう、一度死んだ身だ!」
「控えよ、愚か者。何のために余がわざわざ出張ったと
思っている」
「うるさい。瞬の顔で澄ましかえった口きくんじゃねえ!
 いちいち腹立つ!!」

「顔が気に入らぬなら目を閉じていろ。・・・・騒ぐな
と言うのだ。

 案ぜずとも、今の状態でアテナがテュポンに敗れること
はまずあり得ぬ。封印を解かれた直後の、ましてや肉体を
持たぬテュポンに敗れるようでは、戦いの女神の名が泣く
だろう」
「そ・・・そんなこと言っても、万が一のことがあったら
どうするんだよ?!」

 冥王はやけに素直な仕草で首を傾げた。

「中国の諺で、漁夫の利と言ったか?」
「・・・・・やっぱり出せぇっ!!」

「騒ぐな見苦しい・・・・アテナの聖闘士は何故こうなの
だ。揃いも揃って先走りたがりおって・・・・
 何だ、それは主の薫陶か?」
「あんた、馬鹿にするのもいい加減にしろよ・・・・」
「ついでにこの態度だな。神に対してこの口の利きよう
・・・・アテナよ、部下の教育はもう少し丁寧にして
おいた方が良いぞ・・・・」
「黙れ。腹立つな本当に」

「そなたこそ黙って聞け。何のために余がわざわざ結界まで
張ったと思っている。
 そなたがいると巻き込まれるのだ、
引っ込んでいろと言われたのが分からぬか」
「巻き込まれる?」

 盟は振り返ってハーデスを見る。冥王はひどく真剣な
顔をしていた。

「コーマの宿命を持つそなたがそばにいれば、髪の毛座
の聖衣は封印の媒介にそなたの魂を求める。そうなれば
元の木阿弥であろう。
 完全に封印がすむまで動くことは許さぬ」

「俺の魂・・・・でも、それじゃどうやって封印するん
だ。俺がいなかったら人柱が・・・・」
「・・・・髪の毛座の聖衣には、遠い神代の昔のアテナの
血と、盟、そなたの血が染み込んでいる。

 ・・・一度は命を失うほど大量に流した血がな。
そなたの小宇宙が、あの聖衣には宿っているのだ。それが
封印の媒介となる。そこに今生のアテナの力が加われば封
印は可能だ」
「・・・・・・・」

「・・・・今のあの娘は、そなたの妹の沙織ではない。
 それはそなたが一番よく存じていることではないのか」

 盟の動きが止まる。

「沙織・・・・」
「分かったらおとなしくすることだ」

 静かな声は雷鳴よりも重く響き、盟は完全に動きを
奪われた。


「何故だ。何故吾は敗れる。何故ギガスは封じられる・・・・」

 断末魔の嵐の声が、洞窟に響く。
 一度は解放された漆黒の聖衣は、再び風を封じる繭と
なって収束しつつあった。

「理由など要らないと言ったのは、貴方でしょう・・・
テュポン」

 勝利したはずの戦いの女神は、何故かとても哀しげに
そう呟いた。

「人とギガスとは相容れぬ敵対種。この戦いは聖戦では
ない。
 生存競争に理由は要らない。ただ、殺すか殺されるか
・・・・ええ、そうなのでしょう。

 そして、私が・・・・アテナが、理由なき戦いを許さ
ないことも事実です。それでも」

 きつく唇を噛みしめ、灰色の乙女は告げる。

「テュポン、貴方は破壊。何ひとつ生み出さず、ただ全て
を渦に巻き込んで破壊し尽くす・・・私は地上の護戦者と
して、破壊神である貴方を放置するわけにはいかない」
「・・・・・愚かだ。滑稽だ。・・・アテナはこの期に
及んでまだ言葉遊びに固執する」
「何とでも。いずれにしても・・・・貴方はもう終わり
です。再び、幽冥の底へ帰りなさい」

 女神は静かに黄金の杖をかざす。髪の毛座の聖衣に、
新たなアテナの力が満ちた。
 荒ぶる風の王を封じた聖なる衣は、後ろを向いた女性
の姿が浮き彫りになった闇色の箱に収束し、神代の昔か
らそこにあったかのように静かにわだかまった。

「再び・・・・時は滞る」

 灰色の乙女は告げる。
 言霊は時間を、空間を、世界を律して洞窟に満ちる。

「時は滞る」

 そこに、もうひとつの声が響いた。女神は弾かれた
ように振り向く。

 いつの間に現れたのか、亜麻色の髪の少年が銀髪の
少年を従えるようにして佇んでいた。

「ハーデス・・・・盟? 盟なの? な・・・・何故・・・?」
「コーマ、そなたは下がれ。まだ封印は完了しておらぬ」
「・・・ああ」
「貴方達・・・・どうして」

 呆然としたアテナの声を無視し、ハーデスは進み出る
とパンドラボックスに手を触れた。

「少しだけ・・・・余の力を貸してやる」
「え・・・・」
「何人たりともこの封印の神殿に触れることがないよう
に、“隠れたる者”の力を・・・・」

 静かな声。光さえも飲み込む宇宙の深淵のような、
闇の王の声。

 何かが変わったようには見えなかった。けれど、そこ
にあった≪力≫が、一切感じられなくなっていた。
 アテナの小宇宙も、テュポンの≪意志≫も、そして
コーマの存在さえも。

 冥王は語りかけるように呟いた。

「永遠に、そなたを目覚めさせる者はない。眠るが良い。
大地と冥界の狭間・・・・母なるガイアと父なるタルタ
ロスの懐で、今度こそ・・・永遠に」

 鎮魂の歌のように、言霊が響く。その響きが完全に消
えた時、封印の要石は初めからどこにも存在しなかった
かのように、見えなくなっていた。


「ハーデス。これは、これはどういうことです」
「そうだよ! あんた一体何のつもりなんだ? さっき
から言うことなすこと訳わかんねーぞ!」

 声も出せずに見つめていたふたりが我に返って同時に
詰め寄る。冥王はうるさげに眉を寄せた。

「抗議の内容がずれているような気がするが・・・・
とりあえず、コーマよ。そなたは何か勘違いをしてはい
ないか?」
「は? 勘違い?」
「そうだ」

 ハーデスは掴みかかってきた盟を軽く振り払うと続けた。

「テュポンはアテナだけの敵ではない。余にとっても
・・・我らオリンポスの神々全てにとっての敵だ」
「え・・・・」
「そうでなければ余がアテナに手など貸すものか。

 ・・・・人とギガスとは相容れぬ敵対種。そしてテュ
ポンは彼らの王にして父。
 ───コーマよ。それが何故なのか、分かるか?」

「は・・・・? 何故・・・って・・・・」
「それが、母なるガイアの意志」

 答えたのはアテナだった。戦いの女神は真っ直ぐに
冥王を見つめている。

「・・・そうだ。母なるガイアがそう望んだ。オリンポ
スの神々に敵対する者として、そのためだけにテュポン
を産み出した。

 だから、我らは敵対する。いずれかが滅びるまで、
戦いは決して終わらない」

「テュポンは破壊神。・・・新たな創造を前提としない、
ただありとあらゆるものを自らの渦に巻き込んで破壊する
だけの・・・・無意味で純粋な破壊。そのためだけに
生まれた・・・・」

「───デウス・エクス・マキナ」

 半ば無意識に、盟は呟く。

「そう・・・・≪機械仕掛けの神≫。───テュポン」

 そこに眠っているはずの荒ぶる風の名を、冥王はとて
も優しい声で呼んだ。

「そなたは───哀れだな」



「では、ハーデス。私からの質問に答えてもらいます。
何故、盟を」

 アテナはハーデスに向き直る。ハーデスは首を傾げて
見せた。

「不満なのか?」
「そうではありません! 何故なのかと訊いています。

 私は・・・・盟は死んだと伝えられました。ギガスと
の戦いの中で倒れ、それでも封印となるためにここへ
・・・

 ・・・ハーデス。貴方が言ったことではありませんか。
死んだ者の魂は全て、例外なく冥界の管轄下に置かれる
と・・・・そう言ったではありませんか」
「・・・・言ったな」
「何故です。“富める者”───貴方は全てを手に入れる。
そして手に入れたものを手放すことはない。いいえ、手放
すことは許されない、そうではないのですか?」
「・・・・・・」

 盟は目を見開いて神々のやりとりを見つめる。

 気紛れだ、とハーデスは言った。けれど、死んだ者を
蘇らせるなど、気紛れなどで出来ることではないはずなのだ。

 ───冥王である余なればこそ・・・・

 可能だからこそ、禁じられる。

「どういう・・・・ことなんだ」

 ハーデス・・・“隠れたる者”。そして“富める者”。

 呼ぶことさえも忌まれたその名は、冥界の王、命と死
と輪廻を司る神の名であると同時に、ありとあらゆる全
ての魂を受け入れる死の国の名であり、生きとし生きる
ものを老若男女・貴賤貧富の別に一切関わらず訪れる、
絶対の平等たる運命・・・・死そのものの隠喩でもある。

「そうだ。余は“富める者”。ひとたび得たものを手放
すことはない」
「ならば・・・何故盟を。もしも彼を生命の掟を歪めて
生かそうというのなら、私は貴方を許さない」

「全く・・・聖闘士だけではなく、アテナもか。少しは
落ち着いて聞けと言うのに」

 ハーデスはふっと溜め息を吐いて女神を見返す。

「盟の魂は余の手に落ちてはいなかった。それだけだ」
「何ですって・・・・?」
「盟の肉体が息絶えた時、魂がそのまま冥界へ下ってい
れば出来なかったことだ。盟の魂は冥界の管轄下に入る
ことなく封印の要となったのだ。これなら、生命の掟に
は背かぬ・・・・正確には、法の網の目をくぐるような
ものだがな。安心したか?」

「・・・・それは・・・でも、それでも、何故・・・・」

 アテナは呆然と呟く。ハーデスはそんな彼女に唇だけで
笑って見せた。

「案ぜずともこれは貴女の頼みでしたことではない。
 ・・・貴女に頼まれたのなら断った。成り行きに任せて
おけば盟はそのまま冥界に受け入れられていた」

「ええ、分かっています。私の頼みではありません。
では、何故です?」
「・・・・・」

 冥王はちらりと立ちつくす盟に目をやった。再び、その
顔に笑みが浮かぶ。その身体の本来の持ち主によく似た、
とても優しい笑顔だった。

「これは・・・・瞬の望みだ」
「え・・・・」

「アテナの聖闘士・コーマの盟ではなく、自分の友であり
血を分けた兄弟である男を助けて欲しいと」

「な・・・、そんなことを・・・・」
「瞬は余の分身だ。その望みならば・・・一度捉えた魂を
放つことは出来ぬが、そうではなかったからな。
 余がやったのは、コーマの肉体を蘇らせたことだけだ」

「あんた・・・・さっき気紛れって言った・・・・」
「気紛れだ。瞬の望みでなければこんな気紛れは起こさぬ。
ちなみに、このことをアテナに言わなかったのは、単なる
嫌がらせだ」
「・・・・本気でいい性格してやがるな」

 盟は呻く。ハーデスは一瞬浮かんだ優しい笑みを消し、
全てを隠すような仮面の笑みを取り戻していた。


「・・・・戻りましょう。盟・・・あなたの帰るべきとこ
ろへ」

 小さく息を吐いて、アテナが呟いた。盟は二柱の神々を
見比べながら頷く。

「では約束通り、盟は余が運ぼう。これで契約は完了だな」

 ハーデスはそう言うと盟の腕を取る。ついさっきのや
りとりのことは完全に忘れたように平然とした顔だ。

「聖域に戻ればいいのだな」
「ええ。お願いします」

 アテナも何事もなかったようにあっさりと答えた。

 神々の小宇宙が空間を震わせる。
 そして・・・・・少年と少女の姿は洞窟の底から
消えた。



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