5.SAORI


 聖域の空は晴れていた。
 世界各地で起きた火山活動による火山灰は、
僅かずつだが薄れていっている。

「ここは・・・」
「闘技場のようね。・・・・ハーデス、ありがとうございました。
御礼を申します」
「礼を言うようなことではなかろう。これは正式な契約だ」

 素っ気ない言葉に、盟は思わず口を出していた。

「でも、俺は礼言うべきだろ。なんだかんだ言って、
助けてもらったわけだし」

 冥王は銀髪の少年に目を向ける。

「・・・・それも違うな。そなたに頼まれた訳でもない」

 少年は眉をひそめた。

「・・・・あんたさあ・・・・」
「・・・・それより、コーマよ。髪の毛座の聖衣が封印の
要になった以上、そなたは聖衣を持たぬ聖闘士になるのだな」
「あ? ああ、まあそうだけど・・・・別に関係ないさ。
俺は聖闘士だ」
「下らぬな。その娘はそなたが命を捧げるほどの存在か?」

 冥王の闇の瞳が盟を貫く。

「あのような不甲斐ない小娘がそれほどに大切か。
せっかく地上に降臨しながら、部下に殺されかかって
逃げ出すことしか出来なかった娘が」
「・・・・黙れ。お前の肉体だってアテナの聖闘士なんだよ。
だいたい、お前そのアテナに負けたんだろうが」
「・・・・ふん」

 顔を強張らせて聞いていたアテナが口を開いた。

「ハーデス。確かに私は不甲斐ないかもしれない・・・・
けれど、私は地上の護戦者です。
 そして聖闘士たちはそのための戦士です。彼らは自らの
死を賭した努力によってその力を掴み取る。
 ・・・・あなたの冥闘士たちと違い、与えられた力ではなく
自ら得た力。ご存知でしょう? 与えられた力には限りが
あるけれど、自ら掴み取った力は無限です。
 ・・・そう、神すら倒せるほどの奇跡は、彼らでなければ
起こせないのですよ」

 冥王は女神を振り向く。神々の視線がぶつかり、
すさまじい火花が散ったように見えた。

「・・・・確かにな。だが、だから反乱など起こす輩が
出てくるのだということも、憶えておくがいい。
自ら得た力であるが故に、自らの力に対する矜持が強く
なりすぎる。・・・・相対的に仕えるべき神の絶対性が
疑われる。
 違うか? サガはそう言っていたのではないか?」
「それは・・・・」
「十二宮の戦いで、瞬と戦った男がこう申した。
力こそが正義だと」
「何ですって」
「力こそが正義・・・・ふふふ、幼子のような論理だが
実に潔い。
 ───偽教皇の正体を知りながら、その上で彼に
従っていた男だった。
 貴女はサガに劣ると判断されたわけだ。アテナよ。
神に勝てる戦士は結構だが、自分が負けていては
本末転倒だぞ」
「それでも・・・・貴方に打ち勝ったのは彼らの力と心です。
そして、私は彼らを信じられます。それが私の力です」
「ふ・・・憶えておこう」

 冥王は端麗な唇に皮肉な笑みをひらめかせた。

「だが、少なくとも瞬は・・・アンドロメダの聖闘士は、
アテナの正義の絶対性など信じてはおらぬ。だからこそ
迷いながらも戦ってこられた。
 ・・・・アテナ、見放されぬよう気をつけることだな。
そうなれば遠慮なくもらってゆくぞ」
「・・・・ええ。言われるまでもありませんわ」

 再び火花が散る。
 先に視線を逸らせたのは、ハーデスの方だった。
皮肉な笑顔のまま、盟に向き直る。

「コーマよ。そなたもアテナに愛想が尽きたら冥界に
来ると良い。冥闘士として使ってやろう」
「いかねーよ!!」

 盟の叫びに、ハーデスは初めて声を上げて笑った。
笑顔のまま、アテナを振り返る。

「では、余は失礼するぞ。ここは余にとってあまり居心地の
いい場所ではないのでな」
「あ・・・」

 瞬間、亜麻色の髪の少年に別の姿が重なる。
 顔形は全く同じ、だが髪の色は光すらも呑み込む闇の色。
身に纏うのは闇を紡いで織り上げたような漆黒の衣だった。

 声をかける暇もなく、冥王の小宇宙は消え去った。
 同時に、突然支配を解かれた瞬がくずおれる。

「うわっ!!」

 盟は慌てて弟を支え、抱えながら地面に横たえる。
瞬はとても安らかな顔で眠っていた。

「瞬ちゃん・・・・妙な神様に気に入られてるんだな・・・・」
「全く、どこまでも根性曲がっていらっしゃるようね。
我が伯父ながら」
「・・・いや、それ違うと思う」

 盟は呟く。アテナは不思議そうに聞き返す。

「え?」
「だって、あの言い草要約すると、純然たる好意でやった
ってことにならないか? 
 俺生き返らせたのも瞬の望みだって言ったけど、
絶対瞬が頼んだ訳じゃないと思う」
「どうして」
「『瞬に頼まれた』とは言わなかっただろ。『瞬の望み』
だとは言ったけど・・・・考えてみたら、瞬ちゃんは
そんなこと神様に頼むような性格じゃないし。
 要するに、単なる親切だったんじゃないか? 
礼言うなって言ってたし・・・今の雑言は、全部照れ隠し」
「・・・・・・」

 女神はしばし黙り込み、ややあって小さく
「やっぱり狸だわ」と呟いた。

「いい性格してるな」
「さすが、冥界の王ともなると違うのね。ボランティアも
黙ってはしないわけ」

 ふたりは顔を見合わせて笑った。


「それにしても・・・・いろいろびっくりして忘れてた
けど、瞬がハーデスの器って本当なのか? 何か、今更の
質問だけど」
「・・・・・ええ。本当です。ハーデスは、復活するたびに
この世で最も清らかな人間を器に選ぶのです。今生で、
選ばれたのが彼なの」
「はぁ・・・・」
「ただ、このことは機密事項ですから。他言無用でお願い
しますね」
「ああ。・・・にしても、この世で最も清らかな人間か・・・・
・・・・瞬ちゃんらしいっちゃ、らしいのかな」
「そうね・・・見る目だけは確かだと私も思います」
「ちっちゃい頃は、ほんと天使みたいだったもんなあ・・・・
 まさか聖闘士になって、しかもその性格が変わらないまま
とは思わなかった」
「小さい頃は弱虫なんていじめられたりしていたよう
ですけど・・・それも違うのでしょうね。
 彼は、戦わない強さを持っている人なのね」

 ふたりは眠ったままの瞬の顔を見つめた。
 盟がぽつりと呟く。

「・・・・きっついこと、言われちまったけどなあ・・・・」
「え? 何か話したのですか?」
「ああ。結界の中で、ハーデスに頼んで話させてもらった。
・・・・城戸光政のことを、どう思っているか訊きたくて」
「・・・・それで・・・何と?」
「何とも思わない、ってさ」

 アテナは無言で少年の横顔を見つめた。

「憎むことも許すことも出来ないから、何とも思わない
ことにしたって・・・・自分には父親なんかいない、
それだけだって」
「・・・・・そう」

 少女はそう呟いて、盟の隣に膝をついた。

「きついよなあ。そんなこと言われたら、こっちはもう
返す言葉がないだろ?
 一生許さないって宣言されたようなものだぞ・・・・」
「・・・・私もね、言われたのですよ。一度、お祖父さまの
ことを謝った時に・・・・謝るなと」

 沙織はそっと口を開く。

「え・・・・・」
「城戸光政には、謝罪する資格などないと言われました。
謝るくらいなら何故したのかと。謝れば楽になれるとでも
思っているのかと・・・・承知の上で犯した罪なら、
どんな罰も報いも黙って受けるべきだと」
「・・・・・・・」

 盟は呆然と弟の白い顔を見下ろす。

「正義のために鬼になったのなら、最後まで鬼でいなけ
ればならないのだと。謝罪などしたら、自分でその正義を
否定するも同じだと」
「・・・・きついよ・・・・・瞬ちゃん・・・」
「無理もないのでしょうね。あの頃の私は・・・・まして
や、瞬は一輝のことでとても辛い思いをしたはずですもの」

 美しい顔に悲壮な笑みが浮かぶ。

「だから、私は謝れないの」

 ごく普通の少女のような口調で、沙織は言った。

「地上を守ることは、私にとって義務や宿命や使命などと
いう綺麗なものではないのよ」
「・・・・・」
「これは、私の業なの。たくさんの人を正義の名目で
踏みにじってきた私の、逃れられない業なのよ」

「・・・・それなら・・・俺も同じだ」
「・・・ええ」

 少女は微笑む。


「本当はね、瞬は許すとか許さないなんてレベルの感情は
とうに超越していると思うの。私の勝手な期待かもしれない
けれど・・・・許すことはしなくても全て受け入れていると
思うの。とても、とても強い人だから」
「ああ・・・自分には、許す資格はないんだって言ってた。
・・・・自分は生きてるから、聖闘士として生きてるから、
光政を許す権利はないって」
「そう・・・・彼は、あのときもう覚悟を決めていたの
でしょうね。・・・・だから、私も覚悟を決めました。
私はアテナだと」
「沙織・・・・」

「私はアテナです。私が生まれてきたために運命を狂わさ
れたたくさんの人たち・・・・サガやアイオロスや全ての
聖闘士たち、そしてお祖父さまとその子どもたち・・・・
少なくともそれだけの人々のために、私はアテナで
なければならないのよ」
「・・・・アテナの正義は・・・・絶対でなければならない?」
「ええ」

 女神は昂然と顔を上げた。

「私は地上を護ります。負けません。戦いの女神の名に
賭けて・・・・決して負けはしない。これからも、永遠に」
「・・・・・アテナ」

 髪の毛座の聖闘士は、静かに頭を垂れた。銀の髪が揺れる。

「ご立派になられました」
「いいえ・・・・・」

 少女は首を横に振る。

「嘘よ・・・・今でも怖いもの。逃げないと決めたけれど、
それでも怖いもの・・・・。
 ねえ、盟・・・今でもときどき、思うのですよ。
みんな夢なのではないかと・・・・目が醒めたら
お祖父さまがいて、おはよう沙織、いい夢を見られた
かいって・・・・」

 涙は流れなかった。悲壮な決意の笑顔のまま、
少女はただ声を震わせる。

「思い出すの。本当にあったのかどうかも分からない昔のこと。
 あれはどこだったのかしら・・・・誰かが私の手を
引いてくれているの。私は、その人をお兄さま、と
呼ぶのよ。
 そうしたら、その人はこう言うの。
違うよ、そう呼んではいけない・・・」
「・・・・・」

「では何と呼べばいいの、と訊いたら、その人は・・・・
・・・メイ、と」

「あ・・・・・アテナ」
「友達って意味なんだよ、でも、女の子みたいな名前
だろう、と。不思議ね。どうしてこんなことを憶えている
のかしら・・・・」
「アテナ・・・・それで、何と答えられました?」
「・・・・そんなことない、いい名前だわ・・・と」
「そう・・・・・」

 少年はゆっくりと息を吐く。涙を流すことはない
ままに、少女はその肩に顔を埋めた。

「沙織と呼んでください。お願い。今だけ・・・・
今だけは、沙織でいさせてください」

「・・・・沙織」

「ありがとう。嬉しい・・・・この名前、大好きなの。
お祖父さまがくれた名前。お兄さまが呼んでくれた
名前・・・・」
「沙織」
「お祖父さま・・・・お兄さま・・・・私は、
アテナです。それでも・・・・それでも」
「・・・・うん。それでいいよ」

 腕の中で、瞬が微かに身じろぎをした。
 遠くから、ふたりの名を呼びながら駆け寄ってくる
仲間達の足音が聞こえる。
 少年と少女は顔を見合わせ、もう一度無言のままに
微笑んだ。



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