「あー、そう言えば師匠」
「何だ?」
「訊くの、忘れてました。アフロディーテ様って何座
ですか?」
「あ? あいつ、言わなかったのか・・・・」
「て言うか俺、師匠が何座かも知りませんよ。教えて
くれないから」
「別にんなこと知らなくても修行に支障はねぇだろ」
「でも知りたいですよ。教えて下さいよー」

 デスマスクはふと立ち止まると空に手をかざした。

「・・・・ヒントは本人が言ってたろ。自分で考えろ」

「ヒントって、名前が星の加護の象徴とかってやつですか?
 アフロディーテが象徴って、どういう星座です?」
「だから自分で調べろっての。神話調べれば一発で
分かるぞ。あいつは一応メジャーどころだ」

「・・・・師匠もですか?」
「何?」
「メジャーってのが何を基準にしてるのかよく分かり
ませんけど、師匠の星もそうなんですか?」

「・・・・さあな。ま、星も神話も地味だが扱いは
それなりに大きいかな」
「分かりませんよ」
「分からなければまず自分で調べるべし」
「ケチ・・・・・」

 ぼやく盟を後目に、デスマスクは闇に笑って見せた。

「大海の水を傾ければ、この手の血を洗い流すことが
できようか。いや、できはせぬ・・・・」

「え? 何です唐突に」

「シェイクスピアの戯曲で・・・・『マクベス』だった
か、そういう台詞があるんだよな」

「はあ・・・・」

「女房にそそのかされて主君殺して、その罪の意識に
苛まれ続けた馬鹿な男の話さ。
 本気で馬鹿だな。後で悔やむくらいなら、そんなこと
しなければ良かったんだ。汚れた手を洗おうなんて、
甘ったれるな」

「・・・・・・・」

「俺は洗わない。この手を汚す血があるなら、それは
俺が生きてきた証だからな」


「・・・・・師匠って」

 盟は師の瞳を見上げて口を開いた。

「何だ」

「普段は全然だけど、たまにものすごくかっこいいです」

「・・・・・お前は時々、無駄に正直だな」
「正直は美徳です・・・師匠の好きなことわざで言うと、
『正直の頭に神宿る』と言いまして」
「ほぉう。博識な俺は『嘘も方便』という言葉も知って
いるのだがな」
「すみません・・・・謝るからこめかみぐりぐりするの
やめてください・・・・痛いですすごく」

 星明かりの下、ふたりは騒ぎながら粗末な小屋に向かって
行った。





 石畳の床に軽やかな足音が響く。

「アフロディーテ」

「教皇。ピスケス、ただ今戻りました」

 アフロディーテは跪いた。市井の少年と変わらぬ
服装が、その優美な仕草と重厚な神殿の薄闇から
ひどく浮き上がって見える。

「早かったのだな。ゆっくりしてくると思っていたが」

 黄金の玉座から立ち上がった男は、穏やかな口調で
そう言った。

「一刻も早くご報告を、と思いまして」
「そうか・・・・」

 マスクの下の見えない顔が、微笑んだように思えた。
 おそらくは、とても苦しそうな笑顔に。

「・・・・デスマスクに預けた子どもは、どんな様子
だった?」

「まだ未知数ですが、なかなかの器かと」

 アフロディーテは迷いなくはっきりと答えた。

「この先、扱いようによって如何様にも成長する可能性を
感じました。シチリアの・・・エトナの地の聖衣も、
あるいは」

「・・・・・・・・」
「お考えは間違ってはおられなかったと思います」

 相手は答えない。アフロディーテは構わず続けた。
口元に微かな笑みが浮かぶ。

「あの男が真っ当に教育している姿はちょっとした見物
ですが。ある意味意外、ある意味案の定・・・・ですね」
「・・・・そうか」

「星が・・・・」

「何?」

「高山は、星が綺麗でしたよ。この季節はプレセペ星団が
見事で」

「・・・・・・」

 つかの間、沈黙が落ちる。
 相手の視線が自分に注がれるのを感じながら、アフロ
ディーテは動じることなく跪いて頭を垂れ続けた。

 そして沈黙は静かな声に破られた。

「・・・・ご苦労だった、休んでくれ」

 教皇の法衣を着た男は、低く呟いてゆっくりと座り
直した。
 少年は一礼して立ち上がり、身を翻すと歩き出す。
淡い金の髪が、自ら光を放つかのようにきらめきながら
揺れた。

「アフロディーテ・・・・。本当に、私は間違って
いないと思うか?」

 不意に背後から声を掛けられた。

「はい」

 一瞬の躊躇もなく、澄んだ声が返る。

「私は、迷うことも悔やむことも嫌いです」

「・・・・・・・」

 沈黙の中、決然とした足音だけが響いていった。




 想い出が美しいのはそれが決して戻らぬ過ぎ去った
ものであるからだ。

 春の夜の淡い星々の光も、優しい花の香りも、不思議な
物語も、全ては・・・・




 想い出が美しいのはそれが決して戻らぬ過ぎ去った
ものであるからだ。

 ・・・・それでも、決して忘れたくない想い出がある
ことは、きっと良いことなのだろうと思う。