しばらくの間、三人とも口をきかずに星空を見つめて
いた。
 高山の夜の空気は冷たいけれど、世界中の宝石を
ありったけ散りばめたような空はそんなことなど容易く
忘れさせる美しさだった。

 不意にデスマスクが言った。

「・・・・よし。アフロディーテ、久々に手合わせでも
するか」
「何だ、唐突に」
「いいだろ、メシ代だと思ってちょっとくらい付き合えよ。
 ガキの相手は手加減が面倒でストレス溜まってな、
たまには思いっきり殴れる相手とやりたいと思ってたんだ」
「それひどいですー師匠ー」

 アフロディーテは笑う。闇の中でも見間違えようの
ない、信じられないほど美しい笑顔。

「・・・・・やっぱり」
「あん?」

「君が師匠で良かったな。私なら、手加減などという
面倒なこと、最初からやらないぞ」

「お前と一緒にするな腐れ外道」

「君はやはり優しいな、アズラエル?」

「その呼び方本気で止めろ。鳥肌が立つ」
「照れることはないのに・・・・」
「殺されたいか!!」
「素直に誉めているだけなのに、何故こうもひねている
のだろう。坊や、こういう人間になってはいけないぞ」
「あーもう、お前ほんとに口きくの止めろ。黙ってりゃ
世界中の人間騙せるのにな」
「騙されるのは相手の勝手だ。・・・・手合わせだろう?
 付き合うぞ」

 「チッ」などと下品な舌打ちの音を立てると、
デスマスクはふっと表情を変えた。

 顔が精悍に引き締まる。ごくごくたまに見せる、
別人のような顔だった。

「ルールは?」
「お互い特殊能力は使用不可。肉弾戦のみ、急所攻撃は
なし、でどうだ」
「よし」

 アフロディーテは凄絶な色を瞳に浮かべて笑う。

 ふたりはゆっくりと歩き出した。自然に5メートル
ほどの距離を取って向かい合う。

「盟、気ぃ付けろよ。巻き添え食ったらお前死ぬから」
「・・・いやあのっ、軽く言わないで下さい! 死ぬ
って何ですか?!」
「しかしまあ、こんな試合見る機会なんて修行中の
候補生には滅多にないからな。ラッキーだと思え」
「端で見ていて死ぬような試合って・・・・どういう
ラッキーなんでしょうか」
「見りゃ分かるさ」

 それだけ言うと、デスマスクはアフロディーテに向き
直った。

「言っとくが、反則はなしだぞ。絶対に。やったら殺す」
「失礼な。そんなことを言わなくても反則などしない」

「いいや、お前は信用ならん。俺は忘れてねえぞ。
なあ、初めて喧嘩して取っ組み合いになったとき、お前
いきなり問答無用で向こう臑思いっきり蹴ったよな?!」

 ・・・・日本で言うところの、「弁慶の泣き所」である。
さぞや痛かったことだろう。

 アフロディーテは優美に髪を掻き上げながら言った。

「・・・・フッ。そんなこともあったかもしれんな」

「あげくに、卑怯だっつって責めた俺にお前何て言った?
 喧嘩に卑怯も反則もあるか、玉蹴られなかっただけ
ありがたいと思え、だぞ?!」

「た・・・・・」

 絶句する盟。外道である。

「・・・・フッ。そんなことも言ったかもしれんな」
「しれんなじゃねえ!! 俺はあの台詞一生忘れんぞ!」
「安心しろ。喧嘩なら勝つために手段は選ばないが、
試合なら反則すれば負けだから絶対やらない」

「・・・・・お前ってほんと、根性入った外道だよ」

 デスマスクはごく自然な動きで構えをとった。

「それはもちろん、誉め言葉だな?」

 アフロディーテも穏やかに言いながら体勢を整える。

「ああ、そうさ」

 次の瞬間、ふたりの少年は風になった。



 素直に外見だけ見れば、どう考えてもデスマスクの方が
有利だ。身長はほとんど変わらないが、筋肉の付き方が
違う。
 アフロディーテもよく見れば引き締まった体格だが、
見事に鍛え上げられたデスマスクと並べれば比べものに
ならないくらい華奢に見える。体重差は相当ありそうだ。
 肉弾戦の場合、それはそのまま重大なハンデになる。
・・・そのはずだ。当たり前なら。

 だが、彼らは聖闘士である。聖闘士の戦闘力は、肉体
的な力だけによるものではない。
 一見細身のアフロディーテとて、それこそ人ひとり
片手で投げ飛ばす程度のことは平気で出来るはずだ。

「ハァッ!!」

 鋭い気合いがどちらの口から漏れたものかは分からない。

 盟に認識出来たのは、ふたりの足が同時に地を蹴った
瞬間だけだった。
 凄まじい、と言いたい所だが、盟の目には何も見えな
かった。暗いから、ではない。ふたりの動きが早すぎる
のだ。
 時折激しくぶつかり合うような音が聞こえるだけで、
何が起こっているのかはさっぱり分からなかった。

 呆然とする盟の前で、ふたりは一旦飛び下がって距離を
取った。

「・・・・やっぱ、お前だと拳が軽いよな。アイオリアや
アルデバランの方が、ずっと重くて威力があるぜ」
「ふん。肉弾戦専門の筋肉連中と比べられてもな」
「ま、その代わりお前の方が狙いの正確さと鋭さは上だ。
相変わらず、確実に当ててくるよな」
「それが私の一番得意なことだからな。・・・・君は、
以前より反射が速くなっているな。弟子育成の賜物か?」

 あれほど凄まじいスピードで動いていたはずなのに、
ふたりとも大して息を乱しているようにも見えなかった。
アフロディーテの長い髪も、ほとんど乱れてすらいない。

「いちいち弟子って言うなってんだよ。お前もいっぺん
やってみろ」
「絶対嫌だ」

 叩き合う軽口も全く調子が変わらない。

「おい盟。どうだ、よく見てたか?」

「見えませんでした!! 何にも!!」

「何?! 情けないことを言うな、それでも俺の弟子か?!」
「無理です!!」
「・・・・ふむ。確かに軽くマッハ5くらい超えていたが、
衝撃波は大丈夫だったか?」
「避けろよそれくらい」

 無茶である。

「衝撃波って、そんなものどうやって避けろと・・・・
あの、それよりマッハって・・・・」

「音速。摂氏0度の空気中で秒速331メートル、
1度上がるごとに0.6メートル増す」

「いえ、そんな辞書みたいな説明をされても・・・・
て言うかそんなの見えるわけないじゃないですか」
「見えるようになれ。聖闘士になるんならその程度最低
ラインだ」
「はぁ・・・・」

 アフロディーテが首を傾げる。

「しかしまあ考えてみれば、修行始めて半年でそこまでは
行かないのでは?」
「そんなことはない、俺は・・・あーまあ、俺らは特殊か。
ちっ、凡庸なガキは面倒だな」

「またそういうことを。本当に、君にはもったいない
良い子だというのに」
「だったらお前にやる。遠慮せずもってけ」
「断る。彼も今更私の下に付きたくはないだろう」
「何?」

 聞き返すデスマスクに、アフロディーテはちらりと
目をやってから盟の前に立った。

「坊や。君はあの馬鹿を好きか?」

「・・・おいっ、何訊いてんだお前は!」
「君には訊いていない。どうだ?」

「───好きです。俺の師匠ですから」

「お前も何を答えてるんだ!! つか『馬鹿』でそのまま
俺か?!」

 デスマスクは喚く。アフロディーテはそんな彼を振り返る。

「ほら。これが答だ」

「・・・・・・」

「最後まで君が責任持って育てるのだな。そうするべきだ、
確信した」

 アフロディーテはそう言ってあでやかに微笑んだ。


            ※


 彼と初めて会ったときの想い出は、火山灰で曇った
空の色とひとつになっている。

 観光地として名高いはずの島に、一体誰が使うのかと
思うほど小さな港から上陸し、人目を避けるように山を
登った。
 山は煙を上げていた。辺りの大地は白い灰に覆われていた。

「もうすぐだ」

 案内の男(聖域の雑兵だと名乗った)が言った。

 その言葉の通り、行く手に小さな家が見えた。扉の前に
人影がある。

 それが彼だった。


「お前がそうかよ」

 彼はこちらを見るなり、開口一番そう言った。

 ・・・・その後に続けて、「その年で人生捨てるって
何考えてんだよ物好きな」とかなんとか聞こえたような
気がしたが、盟は気のせいだと思うことにした。

「はい。日本から来ました。盟といいます・・・よろしく
お願いします」
「ふーん・・・・・」

 近くで見ると、遠目の印象より若かった。もしかしたら
まだ十代なのかもしれない。
 針金のような銀髪に色素のほとんどない青灰色の瞳。
顔立ちは端正と言っていい部類だが、どこか世の中を斜めに
見ているような荒んだ色がかかって見える。

「いくつだ」
「今年で9歳です」
「ふん。本気で何考えてるんだか」

 彼はそう言うと急に真顔になり、盟の肩を掴んだ。

「なあ。ものは相談なんだがな」
「はい?」

「お前、このままUターンして日本に帰る気はないか?」

「はぁ?!」

 初手からあまりにあまりな発言に呆然とする自らの
弟子相手に、彼はとくとくと語った。

「はっきり言って、俺は弟子なんか育てたくないんだ。
んな手の掛かること正直やってらんねぇしな。
 で、聞いてるかどうかは知らんが聖闘士の修行ってのは
生半可なきつさじゃねえ。始めた奴の大半が最初の一月の
うちに死ぬか逃げるかして脱落する。
 な、お前もその年で死にたくないだろ。お前がここで
素直に帰ってくれれば、俺は面倒なことしなくていい、
お前は前途ある命を捨てずに済む、でもう万々歳なんだが」

「・・・・・・」

「デスマスク様。そのようなことを仰られては困ります。
これは聖域からのお達しで」

「あぁ? お前はまだいたのかよ。仕事済んだろ、
とっとと帰れ」

「そうは参りません。私はデスマスク様が聖闘士候補を
追い返したりなさらないよう、きちんと見届けるように
と仰せつかっております」
「・・・・ちっ」

 下品に舌を鳴らしつつ男は顔を逸らした。

「ったくあの野郎・・・・俺にだけこんな面倒押し付け
やがって。・・・あいつらもあいつらだ」

「とにかく、この子はあなたの弟子ですからね」
「わぁったよ畜生。オラガキ、とっととこっち来い」
「・・・・・はい・・・・・」

 盟は曖昧にうなずいた。


 こういう人が師匠なのか、という正直かなり暗澹たる
気持ちと、火山灰で曇った空の色は奇妙によく似合って
いたように思う。

 でも、多分悪いものではないのだとも、今は思っている。


            ※


 アフロディーテは空を見上げた。闇の中で金の髪が
揺れる。それに釣られるように盟も顔を上げた。

 強い光。淡い光。限りない時空を超えて届いた、神々の
意志を秘めた光。

 ふと、呟く声が聞こえた。

「・・・・名を付けることは、命を与えることであると
同時に縛ることでもあるから」

「え・・・・?」

「女神アフロディーテ───オリンポス十二神の中で唯一、
ゼウスの血もクロノスの血すらも引かぬ原初の女神。
 ・・・この名は、私の星の加護の象徴。・・・・そして
同時に、この星の導く運命に殉じる意志の───呪縛の証」

 美の女神の名を持つ少年は、そう言うと不意に膝を折り、
盟の目を正面から見つめた。

 夜闇の中、冴え冴えとした冬の星のようなアイスブルー
の瞳が、揺るぐことを知らない光をたたえて輝いていた。

「・・・・盟。守りたいと思う名があるのなら、君は
きっととても幸せなのだろう」

「え───」

「大切にしなさい」

 それだけ言うと、彼は立ち上がった。

「では、私はこれで失礼する。元気でな」
「え? 泊まってくんじゃないのか」
「それでも良いかと思ったのだがな。そんな準備、
してこなかっただろう」

 確かに、土産と言って持ってきたもの以外は手ぶら
だったような。

「・・・お前、普段ならそれで勝手に俺の服着替えに
使ったりしてるだろ」
「今日はやらない。デスマスク、たまには聖域に顔出せよ」
「ああ・・・・」
「それじゃ」

 そっけないほど短い言葉と共に、彼はふっと姿を消した。


「え、え?! 消えた?!」
「テレポートしただけだろ。・・・・最後まで好き放題
言って消えやがって」
「はあ・・・・」
「帰るぞ」
「あ、はい」

 問答無用で歩き出した師に、盟は慌てて従った。








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