「・・・・・あ」

 しばらく黙って夜空を見上げていたアフロディーテが
唐突に声を上げた。

「何だよ?」

「蟹座発見」

 星空の一角を指差す。

「どこですか?」
「あそこ・・・・ああ、説明しにくいな地味な星座は。
そう──あそこにふたつ明るい星が並んでいるのが
見えるか?」
「えーと・・・あ、はい」
「あれが双子座の兄弟星、カストルとポルックスだ。
で、あちらにクエスチョン・マークを裏返したような
形が見えるだろう。下の点に当たる星が一番明るい。
あれが≪獅子の大鎌≫。分かるか?」
「はい。あれが獅子座なんですね?」

「そう。で、そのふたつの間の場所に、普通の星とは
ちょっと違うぼんやりした光が見えるだろう?」

 盟は指された星空を見つめた。
 やや歪んだ四角形を形づくる暗い星の並び。その
中央に、確かに不思議な光が見えた。

「分かります。あれですね」
「あれが蟹座。あの光は、メシエ天体カタログの第44番
に当たる散開星団だ。
 名前はプレセペ、ラテン語で飼い葉桶を意味する。
ちなみに英語ではビーハイプ、蜂の巣だな。それから、
中国語では───死体から立ち上る燐気」

「死体───?!」
「天体観測しに来たんか、お前は」

 聞き返そうとした盟の声を押しのけるように、妙に
不機嫌そうな師の声が響く。

「なーにが地味な星座だよ。お前のはどうなんだ」
「残念だったな、今は丁度太陽が双魚宮に入って
いる時期だ。私の星は見えないな」
「ふん、お前のも地味は良い勝負だろ・・・・ったく、
本気で何しに来やがった」
「たまにはのどかに天体観測もいいではないか。
春の星座が綺麗だぞ」
「この世で一番のどかに程遠い人間が、何トチ狂って
んだ?」
「失敬な。私は平和の大切さを知っているぞ」
「・・・・・・・・」

 デスマスクが黙り込んだのを良いことに、アフロディーテは
盟に向き直ると更に続けた。

「クエスチョン・マークの下の点がレグルス、ライオンの尾に
当たる二等星がデネボラ。
 それから、あの明るい白い星が乙女座のスピカ。デネボラと
スピカと、あちらのオレンジ色の星・・・牛飼い座のアーク
トゥルスの三つを結んだ正三角形が、春の大三角形」

「そんないっぺんに憶えられませんよー」
「この程度で音を上げてどうする。全天には八十八の
星座があるのだぞ」
「そんなこと言われても・・・」

「特徴的な星の並びだけでも憶えておけば結構分かるもの
だぞ。有名な天体とか・・・・ほら、北斗七星は分かる
だろう。そのちょっと下に見える明るい星が猟犬座のコル・
カロリ、春の大三角形にこの星を加えて出来る四角形が
春のダイヤモンドだ。

 それから・・・・コル・カロリとデネボラのちょうど
真ん中にある星座が、髪の毛座。戦勝を祈って女神
アフロディーテに捧げられた王妃ベレニケの髪」

「え・・・・・?」

 盟は首を傾げた。説明される場所は理解できるが、
その位置にそれらしい星の並びは見えない。淡い光の粒が
集まっているだけだ。

「あの・・・・星座って、どんな? 星、見えませんけど」

 アフロディーテは楽しげに笑った。

「ははは・・・髪の毛座はそういう星座なんだ。目に付く
ほどの明るい星はない、散開星団で構成された星座なんだよ」
「星なき星座。まあ珍しいわな。でも、あの辺りの空
には、銀河の窓と言われるほど多くの銀河系外宇宙が集中
して見えるんだぞ」

 振り向くことなくデスマスクが続ける。

「髪の毛座・・・・星なき星座」

 盟はその不思議な名を心に刻みつけるように呟いた。


            ※


「・・・・・いい加減にしろ!」

 双魚宮の庭に子どもの声が響く。

 怒鳴られた相手はムッとしたようににらみ返してきた。

「何だよ。教えろって言うから教えたんじゃないか、
何が不満なんだよ」

「ふざけるな、そんな本名がどこにある?!
 ディアボロ? 悪魔?! 何なんだそれは!!」

「うるさい奴だな。・・・・じゃあ訊くけどな、お前が
言う『本名』って、どういう名前のことだ? 戸籍上に
届け出られた名前のことか。そういう意味なら、ほんとに
ないぞ。俺には」

 ───すっと、空気が冷えるような気がした。
 銀の髪の少年は、怖いほど静かな表情をしていた。

「え───」

「俺は・・・・戸籍なんか無いから。出生届、出されて
ないから───俺は、外の世界じゃいないのと同じなんだ」

「どうして・・・・?」
「・・・・いないほうが良かったからだろ。俺は、
母親を殺して生まれたんだ」
「・・・・・・・」

「父親が───実の父親かどうかは知らない、4つくらい
まで食わせてくれた人だけど、そいつが俺を呼んだ名さ。
ディアボロ・・・ああ、死に神っていうのもあったぞ」

「そんな・・・・でも、出産のときに母親が亡くなる
なんて珍しいことではないはずだ。悪魔だなんて」
「一般的にはそうだろうけど、俺は違うんだよ。
間違ってねえんだ」
「どうして!」

 色素のほとんどない青灰色の瞳。凍り付いた石の
ような冷たい光。

「俺は、人殺しだから」

「そんなこと!」

 アフロディーテは叫んだ。

「そんなこと、聖闘士なら皆同じだ。私だって、この
力で人を殺したことくらいあるぞ。それを悪魔呼ばわり
するなら、私たちの存在意義を否定するのも同じでは
ないか」

 相手は目を見開いてその言葉を聞いていたが、不意に
破顔すると大声で笑い出した。

「何がおかしい?!」

「ははは、お前って変わってんなあ・・・・確かにそうだ、
その通りだよ」

 涙まで流して笑い転げる。

「その台詞、あいつに聞かせてやったら何て言うかな。
もういないから無理だけど、言ってやったら面白い
だろうなあ。きっともっとビビるだけだろうけどな」

「え? いない・・・・って?」

「俺が殺したんだよ」

 笑いを消さぬまま、『悪魔』はこともなげに言う。

「言ったろ、俺は死に神だってさ・・・・」

 言いながらふとしゃがみこむと、彼は地面に生えて
いた草に触れた。

「・・・・ここって不思議だよな。ギリシアってもともと
土地痩せてるし、夏の乾燥がひどいからあんまり植物
生えないのに。聖域だって、周りは荒野なのに、ここは
何もしてないのにこれだけ草が生えてる」

「私の力は植物・・・生あるものに働きかけるもの
だから、その影響があるかもしれないが」

「ああなるほど、アフロディーテは豊穣神の性格も持つ
もんな。・・・・でも、巨蟹宮の周りには、草一本生え
ないんだぜ」

「え・・・・・」

「見てろよ。これが、悪魔の力だよ」


 全身に鳥肌が立つのがはっきりと分かった。

「──────?!」

 自分とさほど歳の変わらない少年の体を、青白い
オーラが取り巻いている。

 草が枯れていく。青々と茂っていた、これは草むしりが
大変だなと思っていた草が、彼が触れた箇所から見る間に
しおれ、茶色く変色していく。

 感じたものは生理的な恐怖。生物の、自らの存在を
守るための最も根本的な本能が、凄まじい勢いで警鐘を
鳴らしていた。
 逃げ出さずにいられたのは、並より高いと自覚する
プライドと、その圧倒的な力に対する好奇心のおかげ
だろう。

「な───何だ、今のは・・・?」

 ようやく出た声は自分でも情けないくらいに震えて
いた。

「草が・・・・・急激に老化させた? 違う、これは
まるで・・・・・生命そのものを・・・抜き取ったような」

「・・・・へえ。さすがだな、分かるんだ・・・・正解
だよ」

「正解・・・・って」

「これが、俺の力。生き物なら何でも殺せるよ。
・・・・生まれつき、出来たんだ。ただ望むだけで
誰でも死んだ。俺を殴ることしか知らない父親も、
悪魔払いしようとした神父も、蹴飛ばして追い立てた
警官も、噛みついてきた野良犬も、俺の周りにいた奴、
みんな・・・・」

 それは、≪負≫の力。生命を否定する力。

「これが・・・・」

「俺が修行で憶えたのは、この力を完全に自分の意志で
コントロールすることさ。ちょっとムカついた程度で
その辺の奴殺さないように。だから今はそういうことは
なくなったけど、その代わり殺すのは本当の意味で上手く
なったぜ。空飛んでる鳥、群れの中から一匹だけ選んで
落とせるよ」

「・・・・・・・・・」

「父親は俺を悪魔だって言った。・・・・な、お前って
どこの生まれ?」

 唐突な質問に、意味を量る余裕もなく答える。

「スウェーデンだが・・・」
「ああ、じゃあお前みたいな髪珍しくないんだ。
 ・・・・でも、俺が生まれたのはイタリアだよ。
こんな色の奴、滅多にいない。俺、どんな血が入って
るんだろ・・・・まあ、だから余計に異常なものに
見えたんだろうよ」

 色素のほとんどない髪と瞳。そこに宿る闇の色の光。

「・・・・父親殺した後教会のやってる孤児院に引き
取られたんだけどさ。
 一月のうちに、俺と同じ部屋で寝てた奴らが、他のガキ
殴って食い物せしめてたガキ大将を皮切りに全員死んだ。
俺のこと悪魔憑きだって言い出した神父は、俺を縛り上げ
ようとしてロープを持ち出した途端に死んだ。

 ・・・馬鹿だよな、悪魔なんか落とせるわけないのに。
俺が、俺自身が悪魔なのに」

「・・・・・・・・・」
「教会飛び出して、町中で寝るようになってからも何人
殺したかなあ。
 ・・・・いつの間にかさ、俺の寝床の周りに、変な
ものが出るようになったんだ。・・・・人の顔が」

「顔・・・?」

「俺が、殺した奴らの顔。ここに連れてこられてからは
巨蟹宮にいるよ。・・・・だから、俺は『デスマスク』」

「デスマスク・・・・」

「知ってるか? 蟹座のプレセペ星団って、中国では
積尸気と呼ぶんだ。死体から立ち上る燐気。
 それから、蟹座の星の並びは、中国の古い星座・・・
二十八宿のひとつで鬼宿っていうんだ。

 鬼───死んだ人間の魂は、鬼宿を通ってあの世に行く。
───俺の星はそういう星座なんだよ。この世とあの世の、
境界を司る者」

「・・・・鬼宿」

「代々、キャンサーに受け継がれる特殊能力なんだってよ。
迷える魂をあの世に導く力。
 まあ、俺みたいに生きてる者の魂まで無理矢理あの世に
送り込める奴は珍しいらしいけど」

 アフロディーテは半ば呆然と呟いた。

「・・・・・・・すごい」

「すごい?」
「すごいじゃないか。魂を抜き出してそのままあの世に
送り込むなんて、究極の力だ。どんなに体を鍛えても、
避けようがないのだろう? ある意味最強ではないか」
「・・・・・・・」

 すっ・・・と。
 「デスマスク」の瞳から、闇の色が消えた。

「お前って、ほんとに変わってる・・・・この話聞いて、
そんな反応した奴初めてだ。蠍や獅子のガキなんか、
マジでビビってたのに」

「別に、驚いていないわけではないのだが・・・・」
「怖くないわけ?」
「・・・怖いことは確かだが、ここで君が私を殺そうと
するなら、私も対抗する力はある。最悪でも相打ちに
持って行ってやろう。少なくとも、黙って魂抜かれる
ほど柔ではないぞ」
「ははは、気に入った。可愛い顔して根性据わってんだな」
「可愛い顔は余計だ」

 ムッとして言い返したら、タナトスの申し子は乾いた
声を上げて笑った。

「お前の名前が星の加護の証なら、俺のこの名も星の
象徴だ。分かったか」

「分かった。・・・・でも、納得は出来ない」
「あぁ? まだ言う気かよ」
「理由は分かったが、そのセンスが許せん。
『デスマスク』なんて、そのまんますぎてひねりも
何もないではないか」
「・・・・人の名前にそんなもん求めるな。悪かったな
そのまんまで・・・・て言うか、アフロディーテってのも
相当どうかと思うぞ俺は」

 アフロディーテは相手の顔を真っ直ぐ見つめて言った。

「よし。私が付けてやる」

「はぁ?!」
「どうせ本名ではないのなら、私が付けてやる」
「お前実は人の話聞かない方?」
「いや。聞くだけ聞いても聞き入れるかどうかを自分で
判断しているだけだ。良いだろう? 良い名前考えてやる
から」
「いらん。勝手に人の名前を付けるな」
「蟹だから、ロブスターはどうだ? 美味そうだぞ」
「なんだそれは?! 真面目に考える気無いな?!
 て言うかロブスターってザリガニだろうが!」
「スウェーデンには、あるんだ。ザリガニ茹でて
むさぼり食う祭が・・・・」
「知らんわそんなもん。本気で止めろ」

「じゃあカルキノスは?」
「そのまんまかよ!! 喧嘩売ってんのか?!」

「・・・・では、アズラエル」
「何?」

「アズラエル。イスラムの伝説の『告死天使』。
天使の中で唯一、肉体と魂を分ける術を知っている者だ。
良い名だろう?」

「・・・・止めろっつってるだろうが! 天使はない
だろ?! どう考えても俺じゃないだろ?!」
「『デスマスク』より百倍良い!」
「『アフロディーテ』が言うんじゃねえ!! いいか、
とにかく俺はデスマスクだ。それ以外の妙な名前勝手に
付けても返事しないからな」

 ふたりの少年は再び睨み合った。

 
              ※


 第一印象は最悪だった。今もそのときの評価は基本的
には変わっていない。

 馬鹿で享楽的で刹那的でどこか人間として大事な部分が
すっぽり抜け落ちていて、でもよく考えてみればそれは
そのまま自分にもあてはまることで。

 でも、決して悪いものではないと思っている。








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