第一印象は最悪だった。


「君と同じ年頃の子でやはり最近聖衣を授与された
聖闘士がいるから、仲良くしなさい」

 晴れて聖衣継承を認められ、聖域に召されたとき。
 出迎えてくれた双子座のサガは笑顔でそう言った。

 でも、ああいう奴だとは思わなかった。



 その日、アフロディーテは双魚宮にいた。

 今日から自分はここを守護するのだと、幼心に誇らしく
思った場所だ。そこに、何の遠慮もなくいきなり踏み
込んできたのが彼だった。

 宮の裏には結構広い庭があって、好きにして良いと
言われていた。
 その頃はまだ何もなかったそこに、花を植えることは
決めていた。自分の星の加護の象徴たる薔薇の花を。
 どこにどの種類を植えようか。そう思案しながら庭を
見回っていたとき、後ろから突然声をかけられた。

「なあ、この宮の・・・・」
「え?」

 振り向いた途端、相手は驚いたように目を見開いて
絶句した。

 癖の強い銀灰色の髪が印象的な、自分と同じ年頃の
少年だった。ちょっときかん気の強そうな、悪戯小僧の
ような顔つきをしている。

「何か?」
「あ、あんたこの宮の女官か何かか?!」
「・・・・・は?」

 唐突に意味不明な質問をされて唖然としている間に、
銀髪の少年は勢い込んだように続けた。

「いや、双魚宮の守護者が決まったって聞いたから
会いに来たんだけどさ。こんな可愛い子に会えると
思わなかったぜ、なあ、名前何て言うんだ?」

「・・・・アフロディーテ」

 とっても嫌な予感を感じながら、アフロディーテは
一応名乗った。

「アフロディーテ? すごい名前だな、
 でも、あんたくらい似合ってれば女神様も文句言わない
だろうな」
「・・・・・・・・」
「それにしても、ほんとにすげえ可愛いなあんた・・・・
ここってさ、いる奴九割以上男だから、めちゃくちゃ
むさ苦しいんだよな。たまにいる女は聖闘士だったら
顔隠してるし。つまんねーと思ってたんだけど、こんな
可愛い子もいるんだ、うわーラッキー」

「・・・・・ふざけるなーッ!!」

 ついにぶち切れたアフロディーテの拳が空を裂いた。
成長途上の少年の手足は一見ひたすら華奢だが、その
外見からは到底想像できない力とスピードを持っている。
 幼しとは言え、彼は黄金の星に選ばれた戦士だった。

「・・・・うわっ?!」

 いきなり殴りかかられた少年は、反射的に身を逸らして
その攻撃をかわした。拳は銀の髪をわずかに掠めたが、
相手にダメージを与えるには及ばなかった。

 次の瞬間、ふたりは同時に驚愕の声を上げていた。

「かわした?!」
「かすった?!」

 そして互いに睨み合う。

「何故・・・・私の拳をかわせるとはどういうことだ?
 君は何者だ?」
「お前こそ、何なんだ? なんで俺のスピードでかわし
きれないんだ?」
「私は光速の動きを体得しているのだ。それを何故
・・・・君も同じスピードで動けるというのか」
「なんだと?!」

 銀髪の少年は愕然とした顔になった。

「光速の動き?! お前が?! じゃあ・・・・お前が
新しいピスケスなのか?」

「・・・・そうだ」

 アフロディーテは胸を張った。

「私は魚座のアフロディーテ」

 相手は叫んだ。

「女聖闘士ならなんで仮面を着けてないんだ?!」

「私は男だからだ、いい加減にしろ馬鹿!!」
「嘘だッ!! その顔で男?! 冗談じゃねえぞ、純粋に
超可愛い子に会えてラッキーとか思った俺の立場はどう
なる?!」
「知るかそんなものー!!」
「だいたい、何だその名前!! 思いっきり女名前
だろうが! その顔でその名前で、それで男だってのは
本気で詐欺だぞおい!!」
「この名前はピスケスの伝統だ、君に文句を言われる
筋合いはない!! ああ、そこまで言うならこの場で
裸になってやる!」

 怒りのあまり過激化し、本気で服に手をかけようと
したアフロディーテに、さすがに相手も止めに回った。

「・・・・いや、分かった。俺が悪かったからそれは
よせ。見たくないから」
「・・・・・・」
「悪かったってば。涙目で睨むなよ」

 素直に謝られたので、アフロディーテも許してやる
ことにした。

 銀髪の少年は快活に笑う。

「俺はキャンサーのデスマスク。よろしくな」


           ※


「うわあ・・・・、本当に星が綺麗」

 降るように輝く星々。星空を切り取ったような黒い影が、
エトナ山の形を想像させる。盟は目を輝かせた。

「何だ、君は見たことがないのか?」
「ないですよ、夜の山は冷えるから外に出ることもないし
・・・やっぱり寒いな」

 エトナ山の標高は、富士山と大して変わらない。
 ここはまだ中腹だが、下界との気温差はかなりのものの
はずだ。山頂にはまだ冠雪が残っている。

「ふうん・・・・この程度、私には冷えるうちに入らない
が、そういうものなのだろうか」
「寒いですよ、なんで平気なんですか?」
「私が生まれたのはスウェーデン、修行したのは
グリーンランドだ」
「・・・・よく分かりました」

 そりゃ寒さには強かろう。

 アフロディーテはふと呟いた。

「今日は噴煙が見えないな。地下の巨人たちの機嫌がいい
かな」
「巨人? 何の話ですか?」
「おや、エトナで修行しているのに知らないのか?」

 そのとき、別の声がかけられた。

「火山活動はマグマの地殻造営活動の影響だ。神話伝説の
入り込む余地などあるものか」

 アフロディーテは驚いた様子もなく返した。

「・・・子ども相手に夢もロマンもないことを言う男だな」
「お前、噴火の最中にそのロマンとやらが何かの役に立つと
思うのか?
 ・・・・何しに来たんだよ、ふたりして」
「夜の散歩。星が綺麗だな」
「・・・・ああそうかい」

 盟はふと気付いた。デスマスクの身体から煙草の匂いが
全くしないことに。そして、これまでもタバコを吸いに
行くと言って外出し戻った彼からそんな匂いを感じたことが
ないことに。

 ───では、彼はこんな時間に冷え込んだ戸外で何を
していたのだろう?

「ししょ・・・」

 訊こうと思って見上げた師の横顔が一瞬仮面のように
見えて、盟はとっさに言葉を失った。

「何だ?」

 代わりに出てきたのはまるで違う質問だった。

「あの、さっき言ってた巨人って何ですか?」
「ああ・・・・」

 デスマスクは銀の髪をがしがし掻き回した。

「ギリシア神話の・・・あー、めんどくせえからアフロ
ディーテ、解説任せた」
「君はそれでも師匠なのか? 地元の伝説くらいもう少し
ちゃんと説明してやりたまえ。君の弟子にはもったいない
ような素直な良い子ではないか」
「うるせ。いちいち俺の弟子を強調するんじゃねえ」

 アフロディーテは微笑と同時に溜め息を漏らすと、
盟に向き直った。

「君は、ギリシア神話の話を、どれくらい知っている?」
「えーと・・・・ペルセウスとかヘラクレスの話なら」
「英雄譚か。分かりやすいな・・・・≪ギガントマキア≫
という言葉を聞いたことは?」
「・・・すみません、ないです」

 微笑が苦笑に変わる。

「ギガントマキア・・・・≪巨人たちとの戦い≫。
 ギリシア神話の、初めの方に出てくる話だ。
 天空のウラヌスは子のクロノスと争い、その座を追われた。
 だが、彼の流した血を受けたガイアは、恐るべき巨人
たちを産み出した。
 ───それがギガス、複数形ならギガンテス。古の邪神を
奉ずる、神々の敵」

 天空を彩る星々を見つめながら、美貌の少年は歌う
ように語る。古の吟遊詩人はきっとこんなふうに人の心を
惹きつけたのだろうと、盟は思った。

「・・・・オリンポスの神々は強大な力を持つ彼ら相手に
苦戦を強いられる。神々の王ゼウスすら、一度は捕らえら
れたほどに。───ギガスは、神の力だけでは倒せない
存在だったのだ」
「神の力だけでは?」
「人の力がなければ、な。激しい戦いの末、遂に神々は
巨人族の封印に成功した。だが、そのときには聖闘士たちは
全て死に絶えていたという」
「・・・・・・・・」

「伝承によると、戦いの女神アテナは山を投げつけて
彼らを地の底に封じたという。封じられた巨人たちは
苦しみもがいて大地を揺らし、山から炎の息を吹き
上げる・・・・」

「それって───火山?」

「この山だよ」

 黙ったままだったデスマスクが不意に言った。
火山灰に覆われた大地を軽く蹴りつける。

「エトナ山は、古の邪神の───封印の地なんだ

「へえ・・・・」

 盟は目を見開いて地面を見つめた。
 星明かりの僅かな光の中では何も目に映りはしないが、
その地の底に眠る伝説が見えるような気がした。

「知らなかったか? シチリアは、古代ギリシアの
伝承が多く残る地なのだぞ」
「あはは、知りませんでした」
「デスマスク。君、本当に少しは教えておけよ・・・・」

 薄情な師匠は「ハン」と鼻で笑った。

「よし、じゃあひとつ一番いいことを教えてやるよ。
この島を言い表す、一番良い言葉だ」

「ほう?」

 銀髪の少年は目を細めて眼下にあるはずの街を見やり、
軽く節を付けて言った。

「オリーヴの樹と、オリンポスの神々の息づく地には、
愚か者と天才は生まれるが、本当の悪人はいない」

 年の割に低い声が、言霊となって夜風に乗る。この
輝く島を祝福するように。

 それはとても美しい言葉だった。

「・・・・・・・・」

 金髪の少年がふわりと笑う。

「なるほど、良い言葉だな。君はその両方を兼ねて
いるし」
「なぁんだってぇ?」

 再び罵り合いに発展しそうな気配を察し、盟は慌てて
話題を変えた。

「でも、すごい話ですね。山を投げつけるなんて・・・・
豪快だなあ」
「ふふふ・・・本当だな」

 アフロディーテの声が一瞬笑いを含み───それは
すぐに冷淡な響きにすり替わる。

「───本当に、それだけの力があれば良かったのに」

「・・・・・・え?」

「今更言っても始まらねえよ。伝説は・・・所詮ただの伝説だ」
「・・・・・・確かにな」

「あの・・・何の話なんですか?」

 自分の存在を唐突に忘れたようなふたりの言葉に、
盟は慌てて声を上げた。
 ふたりの少年は顔を一瞬見合わせた。そして、アフロ
ディーテは肩をすくめ、デスマスクは幼い弟子から
目を逸らして吐き捨てるように言った。

「お前は知らなくて良いことだよ」

 いずれ嫌でも知ることになるのだから。


            ※


「・・・・・ふざけるな。何だその名前は」

 アフロディーテは目の前の相手を思い切り睨みつけた。
 銀髪の少年は憎たらしいほど飄々とした顔で言い返した。

「お前の女名前ほど変じゃねえよ」

「いーや、君の方が変だ。アフロディーテは一応固有名詞だ。
『デスマスク』なんて、人名ですらないだろうが?!」
「んなこと俺のせいじゃねえや。これが俺の名前だよ」
「ふざけるな!」

 無意識のうちに相手の二の腕を掴んでいたのは、
そうしなければ二度と彼と話せないと思ったからだ。
 何故そんなことを思ったのかは分からないけれど。

「そんな名前では呼べない。本名を教えろ」
「俺だって女名前で野郎を呼びたくねえよ」
「じゃあ、私の本名を教える! だから君の名前を
教えろ」

 今の名を与えられたときに、捨てたはずの名だ。
その名を呼んでくれる人間は、もうただのひとりも
この世にはいない。

 つい小声になって告げた名に、「デスマスク」は
何故か奇妙に寂しそうな顔をした。

「・・・・・分かったよ。そこまで言うんなら教える」

 色素のほとんどない青灰色の瞳が、底の見えない
闇の色の光を宿す。

「・・・Diavolo」

「・・・・・え?」

「ディアボロ。俺の名前だよ」






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