3.SHUN



 華奢な少年の身体が、唐突にがくりと崩れた。そのまま
前に倒れ込みそうになる弟を、盟はとっさに支える。

「瞬!」
「・・・・めい」

 長い睫毛がゆっくりと上下する。

「盟・・・・ああ、盟」

 その下から現れた瞳は、髪と同じ優しい茶色をしていた。
 大きく見開かれた目が見る間に潤み、涙があふれ出した。

「瞬・・・・」
「盟・・・・よかった、よかったぁ・・・・」
「あー・・・・間違いなく、泣き虫瞬ちゃんだな」

 実力の程は漏れ聞くだけでも相当なもののはずなのに、
この弟は幼い頃とまるで変わっていない。

「・・・久しぶり」
「うん・・・」

 涙を拭いながら、瞬は笑った。

「ごめんな、いろいろ迷惑かけて」
「盟が謝ることじゃないよ」
「・・・いや。俺が謝ることなんだ」

 盟は異母弟の笑顔に一瞬ためらい、それから意を決して
口を開いた。

「瞬・・・・俺、お前に聞きたいことがあるんだ」
「僕に?」
「お前にだけじゃないけど・・・答えてくれるか?」
「・・・何?」

 弟は穏やかに微笑む。兄はその笑顔に耐えかねたように
俯いた。

「お前・・・・・、あの人のこと、どう思ってる?」
「あの人って?」
「俺たちの、父親・・・・城戸光政のことを」
「・・・・・・」

 優しい顔がゆっくりと強張った。

「それは・・・・それは、どう答えて欲しいの・・・・?」
「何も。ただ、お前の思っていることを教えて欲しい」
「・・・・・」

 瞬は黙って盟を見つめる。盟はその目を真っ直ぐに見返す。

 目を逸らすことだけはするまいと思った。
 父のために。
 
 そして弟は静かに首を横に振った。

「・・・・・何も」
「え・・・・」
「何とも思わない」

 盟は呆然とその顔を見つめる。あらゆる感情を押し殺
したような、仮面のような無表情。けれど、その顔はと
ても苦しげに見えた。

「瞬・・・・」
「兄さんに訊いたら、きっと今も憎んでるって言うね。
 星矢は、あんなやつ父親じゃない、かな。氷河はちょっと
吹っ切ったみたいなこと言ってたけど・・・・紫龍なん
かは結構認めてるのかもしれない。
 他のみんなはどうだろうね・・・・。

 でも、僕は他に答えられない。こんな形で、人を憎み
たくないから。
真っ直ぐ見ようと思ったら、僕だってあの人を憎むよ。
捨てられたこと自体はもう恨まないけど、あの人のした
ことはどうしたって許せることじゃない。
 どんなに理由や大義名分があったって、それが理解出来
たって、感情が絶対に許せないと思う。
・・・・それにね、僕にはあの人を許す権利はないんだ」

「何・・・・?」

「僕は生き残ったもの。そして、今も生きてる・・・聖
闘士としてね。
 あの人を許す権利があるのは、何も知らずに踏みにじ
られて、そのまま死んでいった残り90人の兄弟達だよ。

 僕は・・・・人を憎むのは嫌だ。すごく悲しくて苦しい
から。あの人を・・・・憎むことも許すことも出来ないんだ。
だったら、関心そのものを捨てるしかないでしょう・・・・?」
「・・・・・・」
「・・・・僕には、父親はいません。生まれた時から
いなかった。
あの人は、城戸光政は自分から父親であることを捨てたんだ。
・・・・だから、僕には父親なんてものはいない。いるのは
兄さんだけ。ずっとそうだったし、これからもそう。

 ───これでいい?」
「・・・・・・・・・そうか」

 盟はゆっくりと息を吐いた。

「そうだよな。それが当然なんだよな。・・・・ごめん」
「───どうして、盟が謝るの?」
「俺が───謝らなければならないことだから」
「だから、それはどうして?」
「・・・・・」

 盟は瞬の白い顔を見つめる。線の細い、清らかな少女の
ような美しい顔は、その兄にも、自分にも、他の兄弟達の
誰にも似ていない。

 みんなそうだ、と思う。自分たち兄弟は誰も似ていない。
眉の形や目元に少し共通点を見出せる者もいるけれど、
それはあまりにもささやかで、言われなければきっと誰も
気付かない。
 全員並べてみたって、自分たちが半分は同じ血を受けた
兄弟なのだと気付く者はいないだろう。

 誰ひとり、似ていない。

「───瞬。お前って母親似?」
「いきなり何を訊くの?」
「いや、なんとなく・・・・・お前に似てたんならすごい
美人だよなと思って」
「・・・どうなんだろうね。母さんは僕を産んですぐ死んだ
から、顔、知らないんだ。兄さんもほとんど憶えてないって
言ってたし」
「そっか・・・・」


 父の血は、それほどに薄かったのだろうか。血を分けた
子どもたちの誰ひとり、その姿を受け継ごうとしなかった
ほどに。

「・・・似てる人も結構いるよね」

 唐突に、瞬が呟いた。盟は弾かれたように顔を上げる。

「えっ?!」
「思わなかった? 兄さんも星矢も紫龍も氷河も、みんな
似てないのに眉の形がそっくりなんだよね。
 太さは違うけど、真っ直ぐで眉尻がきゅっと上がってるの
・・・盟もそうじゃない。他にも、邪武とか檄なんかもそう
だよ。他の部分は全然違うのにね。 
 僕は・・・・やっぱり母さんに似たのかな、本当に似て
ないけど」
「・・・・・」
「この形ってあの人と同じでしょう」
「お前・・・・・」
「ねえ、盟。・・・城戸光政の血が、そんなに大切?」
「お・・・・俺は」

 弟の瞳は全てを見透かすかのように澄んでいた。

「僕はそんなふうには考えたことないよ。昔は、兄さん
に似てないのが哀しかったけどね」
「俺は・・・・」
「・・・盟には、やっぱり違うのかな」
「・・・・・!」

 盟はゆっくりと息を呑んだ。愕然として弟を見つめる。

「瞬・・・・」
「・・・・・・」
「お前・・・・、知ってるのか・・・・?」
 弟は僅かに目を伏せた。
「君が城戸光政の嫡男だったこと? ・・・うん。
知ってるよ」
「・・・どうして」
「・・・辰巳さんがね。君のことを聞いてから、
あんまり様子が変だったからみんなで問い詰めた
んだよ」
「・・・・さりげなく結構怖いんだが」
「それくらいする権利はあると思う」
「お前が言うと本気で怖いって・・・・」
「別に暴力は振るってません。ただ、教えてもらった
だけ。・・・・口止めしたでしょう? 思いっきり
渋られたけどね」

 ・・・泣いてたよ。

 聞き取れないほど小さな声で、瞬は付け加えた。

「そうか・・・、じゃあ、みんな知ってるんだ」

 盟は俯いた。銀色に染めた髪が薄闇の中で揺れる。

「・・・・ごめん」
「どうして、君が謝るの?」
「俺は・・・・」

 唇が震える。

「俺は、城戸光政を父親だと思っている」
「・・・・・」
「俺は、あのときの子どもたちの中で唯一、自分から
望んで修行に出たんだ。父さんの心を継ぎたかった。
 女神を、平和と正義を守る戦士になりたかった。
もし止められたら、それこそ父さんを恨んだと思う。
 お前達から見れば、お坊ちゃんのいい気な言い草だ
ろうけど・・・」
「・・・・・・」

 それは、裕福な家で何不自由なく育った少年の、
子どもっぽいヒロイズムに過ぎなかったのかもしれない。

 それでも。

「胸張って、俺はお前達の兄弟だって言いたかったよ」
「・・・・・・・・」
「父さんが自分の『正義』の使命のために、自分の
子どもたちを犠牲にしたのは事実だ。
 だから、恨まれるのも憎まれるのも当然のことだ
と思う。でも、俺はその心を知ってる。どれだけ悩
んで苦しんだ末のことだったかを知ってる。

 ・・・・何と言っても言い訳なのは分かってるよ。
踏みにじられたのはお前達の方なんだから。でも・・・・
俺は父さんの気持ちを知ってる。
 だから、謝ることしか出来ない」

 亜麻色の髪の少年は、黙って兄を見つめた。唇が一瞬
震え、それから言葉を吐き出す。

「・・・・・僕には、父親はいない」

 それは、絶対的な拒絶の言葉。

「ごめんね盟。でも、僕にはそうとしか答えられない。
 ・・・・あの人は、君の父親であったことはあるんだ
ろうけど、僕の父親であったことはない。それだけの
ことだよ。

 僕が、兄弟だと・・・血の繋がった兄弟だと思えるのは、
一輝兄さんひとりだけだ。

 ───ごめんね。血が繋がってなくても兄弟にはなれる
けど、それでも」
「俺は・・・・お前たちみんな、弟だと思っている。
 6年前から、思っていた。・・・・拒まれても仕方が
ない。でも、それは変わらない」
「そう・・・・」

 瞬は目を伏せ、もう一度心からすまなそうに、
しかしきっぱりと「ごめんね」と言った。
 盟はきつく唇を噛む。そして、全てを振り捨てるよう
にかぶりを振った。

「・・・・ああ。そうだよな」
「盟・・・・」
「俺は、兄弟であることが絆だと思ってたんだ。血の
繋がり・・・・父さんの血。お前達がみんな兄弟だって
聞いて、 俺は本当に嬉しかったんだ」
「・・・・・ごめんね」
「お前が謝ることじゃない。・・・・そうだよな、こん
なの、所詮は上の立場の甘ったれた理屈だよな。

 分かってる。分かってたんだ・・・・」

 弟の白い美しい顔が、涙ににじんで歪んで見えた。

「・・・・・・・」

 瞬は俯いたまま唇を噛んでいる。瞳は潤んでいるけれど、
涙はこぼれない。

 盟は顔を上げ、真っ直ぐに弟を見た。
 そう、目は逸らさないと決めたのだ。それが、父の想い
を継いだ自分の義務なのだと。

「・・・・瞬。ひとつだけ、頼みがある」
「何・・・?」
「一度でいい。一度だけでいいから・・・・
兄さんって、呼んでくれないか・・・?」
「盟・・・・・・」

 弟は一瞬泣き出しそうに顔を歪ませ、それから微笑
んだ。

 幼い頃の無垢な天使のような美しさは変わらなくて
も、その笑顔はもはや天使のものではない。
その清らかさを愛でる神のものでもない。この世の悲
しみも苦しみも憎しみも知っている、紛れもない人間の、
それ故に崇高な笑顔だった。

「・・・・盟兄さん」

「瞬・・・・」
「僕は、城戸光政を自分の父親だと思うことは出来ない。
でも、僕も嬉しかったんだよ。みんなのことは好きだ
もの。血が繋がっていなくても兄弟にはなれるもの」
「ああ・・・」
「盟兄さん。君が11人目・・・生きていて良かった。
戻ってきてくれて良かった」
「・・・・・・ありがとう。ありがとう・・・・」

 涙が落ちた。
 弟は黙って、兄の手に自分の手を重ねた。



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