2.HADES



(・・・・めい・・・)


 どこか遠いところで名を呼ばれた。
 誰の声なのかはわからない。ただ、とても懐かしい。
 もう決して戻ることのできない場所の、美しいけれど
哀しい象徴のような声だった。

(・・・メイ)

 実は幼い頃はこの名前があまり好きではなかったこと
を思い出す。
 何しろ響きが完全に女名前だ。


(盟・・・)


 いい名前だと、誰かが言ってくれた。

それからは結構好きになった。



 ・・・・・あれは、誰だったのだろう?




「盟! 一緒にサッカーやろうぜ!!」

 弾けるような子どもの声が響いた。少し赤みがかった
くせっ毛と、大きな目が印象的な、2歳下の少年が自分
を呼んでいる。
元気のよさとすばしっこさはピカ一で、暇さえあれば
走り回っているか悪戯を考えているかするような少年だ。
 今も、少しも変わっていない。

「星矢・・・・・」
「ひとり足りねーんだよ! 入ってくれよ!」

 見ると、星矢の傍には見覚えのある子どもたちがいた。
 漆黒の髪と、年に似合わない落ち着いて理知的な瞳を
した少年。
 透けるような金の髪と碧の瞳をした少年。
 柔らかな茶色の髪の、女の子のように可愛らしい少年。
 対照的に険しい目でこちらを睨むようにしている少年。

 ああ、紫龍。
 真面目そうなところ変わってないな。
 そう言えばお前が俺の師匠、倒したんだっけ。
 参るよなあ。
 殺しても死ぬような人じゃないと思ってたけどなあ。
 氷河、お前相変わらず愛想ないんだな。
 でも、結構喋るようにはなったよな。
 昔は、本当にいつ見ても黙り込んでたもんな。
 ・・・良かった。
 瞬。昔から可愛かったけど、ほんとに綺麗に育ったん
だなお前。
 顔もそうだけど、中身もな。
 強くなったんだな。
 泣き虫は、治ってねえみたいだけど。
 一輝、お前は・・・・ごめん、お前に辛い思いをさせ
たものが何か、俺は知ってる。
 それでも、俺は捨てられない。
 ごめんな、本当に。
 邪武、那智、檄、市、蛮・・・・・お前たちも帰って
きてるんだったな。
 ああ、会いたかったな
 ・・・なあ邪武、お前、今でも彼女の・・・・
沙織のこと、好きなのか?

 取り留めのない思いが頭の中をくるくると回り、動く
ことが出来なかった。

「盟、何してるんだ? 来いよ」
「・・・俺は・・・・・」
「来いよ!!」

 星矢は輝くような笑みのまま、何のてらいもなく手を
差し出した。

「盟・・・・」

 不意に、違う声が横からかけられる。
振り返ると、少女のような優しい顔をした少年が
笑っていた。

「瞬」
「・・・・君で、11人目」
「え?」

 美しい顔に浮かんだ笑みは、絵に描かれた天使そのも
ののようだ。

「生きていてよかった・・・・」
「・・・・よくないさ」

 盟は反射的に首を横に振る。瞬は不思議そうに首を傾
げた。

「どうして?」
「俺は・・・・俺は、俺のせいであんな」
「違うよ」
「何?」

 いつの間にか、そこにいるのは盟と瞬のふたりだけに
なっていた。
 6年前の幼い姿ではなく、再会した今の姿の瞬が、こ
れは少しも変わらない優しい笑みを浮かべている。

「・・・・少なくとも、聖域では誰も君を責めたりはしない
よ。・・・僕も、同じだしね。いや、多分僕の方が、たくさん
迷惑をかけてると思う」
「何? 何を言ってるんだ?」
「・・・・全ては宿命だと、アテナは言っていた」
「そんな・・・・そんな言葉でお前は納得できるのか?」
「できないね。そもそも、僕は信じてないよ、こんなこと」
「じゃあどうして・・・・」
「盟、君は知っていたんじゃないの?コーマがどうい
う聖衣なのか。その宿命がどんなものなのか」

 盟はゆっくりと目を見開いた。
 瞬は穏やかな笑顔のまま、真っ直ぐにその目を見つめる。

「俺は・・・・・」
「髪の毛座は星無き星座。コーマが黄金・白銀・青銅の
どの階級にも属さない欠番になっていたのは、あの聖衣
そのものが封印の要石だからだ」
「ああ・・・・」
「星の導く運命・・・・戦勝を祈って神に捧げられたベレニケ
の髪。・・・それが髪の毛座。コーマの聖闘士はテュポンの
封印のための人柱。───盟。君はその運命に従った・・・
そうだね?」
「・・・・封印を解いてしまったのは俺だ。だから」
「うん。僕も同じことを考えたことがある。でもね、事情が
変わったんだ」
「何だって?」
「今生のアテナは変わり者なんだ。運命とか宿命とかで
片付けたくないんだって」
「どういうことなんだ?」

「戻ってきて、盟」

 迷いのない瞬の言葉に、盟は呆然とした。

「・・・・無理だ。俺はもう、封印の要になってしまっている。
戻れない」
「戻ってきて」

 瞬は変わらず真っ直ぐな眼差しを盟に注ぐ。
 差し伸べられた手は、歴戦の戦士のものとは思えない
ほど細く華奢だった。

「だから、無理だよ・・・・なあ、俺たち、何を話してるんだ?
これ、夢だよな。俺、こんな夢見るほど未練があるのか? 
最初からそのつもりでここへ来たはずなのに・・・・
なあ瞬、何でなんだ?何でお前がそんなことを言うんだ?」
「盟。これはただの夢じゃないよ」
「じゃあ、何・・・」
「それに、君はもう人柱じゃない」
「なんだって?!」
「テュポンの封印・・・・“滞る時の監獄”。君はテュポンを
時の狭間に封じた。この意味が分かる? ・・・・封印した
ままだったら、君の時は止まったままだ。夢を見ることも
無いはずだよ」
「そんな・・・・だったら、テュポンはどうなったんだ」
「テュポンはアテナが今度こそ封じる。ひとりの人間に
背負わせることはしないと、彼女は言ったよ。だから、
戻ってきて、盟」
「瞬・・・・・」
「君で11人目・・・・・ね、君が来たらサッカーチームが
できるんだ。だから、戻ってきて」
「・・・・・・ああ」

 差し出された手を取る。

 瞬はもう一度、天使のように微笑んだ。






 盟はゆっくりと目を開いた。

 かすかに光を放つ岩天井が目に入る。
奇妙に静かな空気に違和感を感じたが、それが意味
するものはよく分からなかった。
 ごつごつとした岩場の感触。身体は少しだるいが、痛
みは無い。自分の鼓動と呼吸を感じる。
 彼はゆっくりと瞬きをして、それから身を起こした。

「・・・・・瞬?!」

 すぐ傍にいた人物が、起き上がった自分の声に振り向
いた。
天使のように美しい白い顔と亜麻色の髪。
見間違えようも無い、弟の顔だ。

「瞬、どうしてここに・・・ああ、無事だったんだな。よかった、
他のやつらは・・・・・」

 そこまで言って、盟は気付いた。自分の顔を静かに見
返している瞬の瞳が、自分の知っている柔らかな亜麻色
と違っていることに。
 急速に、口の中が乾いていくのを感じる。
あたかも魂を・・・・存在そのものを圧倒するような凄まじい
『力』。
テュポンに対したときとは違う、むしろはるかに大きいかも
しれない『畏れ』が、動きすらも奪った。

「お・・・・・」
「目覚めたか」

 「瞬」は静かに呟くように言った。
 その瞳は、見つめるだけで吸い込まれそうな、深い深
い青。闇よりもなお暗い、光すらも飲み込む宇宙の深淵の
色をしていた。

「お前・・・・、誰、だ・・・?」
「・・・・・・」

 相手は無言のまま、盟を見つめる。盟は必死で言葉を
継いだ。
自分が喋れることにも驚いたが、口を動かしていなけれ
ばそのまま押し潰されてしまう気がした。

「誰なんだ・・・・・瞬の顔して、なんでそんな目をしてる・・・?
ここはどこなんだ? お前は、誰だ?!」

 相手は叫ぶ盟に動じるでもなく、岩にもたれるように
端然と座ったまま静かに口を開いた。

「ここは結界」
「何?!」
「余の結界だ。───余は、“隠れたる者”」

 簡潔すぎる答えに、盟はとっさに言葉を失う。そして、
思い出した。その二つ名の意味する存在を。
 口の中がからからに乾いている。

「隠れたる者・・・・冥王───ハーデス・・・・?」
「ほう。存じておったか」
「ぞ、存じても何も・・・・なんでそんな超大物の神さんが、
こんなとこにいるんだ?! ・・・・いや、この場合なんで
そんな神様がそいつに・・・・瞬の格好してるのかを訊く
べきなのか?」
「・・・・余がこの姿をしているのは、この者が・・・瞬が
今生における余の器だからだ。そして、余がここにいる
のは、アテナの要請を受けたから」
「アテナの・・・・?」
「テュポンの封印の要となった聖闘士を救うことを頼ま
れた」
「な・・・・じゃあ、さっきの夢は・・・・」
「ああ。余が見せた。瞬の心を媒介にしてな」
「・・・・・・」

「本来ならば聞く筋合いの頼みではないのだが、相手が
相手なのでな。それに、そなたは自らの魂を媒介にテュ
ポンを封じたであろう?
このような形で勝手に輪廻を離れる魂があることは、冥界
としても看過するわけに行かぬ。だから引き受けた。引き
受けた以上はそなたの身の安全は余が責任を持って守る
故、安心するがよい」
「守るって・・・・アテナは?」
「アテナは今テュポンと戦っているが」 
「あっさり言うな! どこだよそれは?!」
「今ここで探しても無駄なことだ。空間を切り離してある
からな」
「何・・・?」

「“ハーデスの隠れ兜”という名を聞いたことはないか?」
「は・・・? 神話に出てくるあれか?」
「そうだ。“隠れたる者”と呼ばれる余の力・・・姿はおろか
小宇宙そのものまでも完全に隠し果せる結界だ。ここに
いる限り、そなたの身に危険は及ばぬ」
「危険って・・・あ、アテナは戦ってるんだろ?それで、
あんたは、ここで結界作って閉じこもってるだけか?」
「アテナはテュポンの封印のために力を尽くす。余が頼
まれたのは、そなたの魂を解放して正しい輪廻の輪に戻
すこと、そしてそなたを聖域に連れて行くことまでだ。それ
以上のことは知らぬ」
「薄情・・・・」
「余とアテナは情で繋がっているわけではないぞ」

 冥王は冷ややかに言い切った。

「それに、これはあの娘の希望でもあるのだ。今度こそテュ
ポンと決着をつける。ついては、火山災害で地上に多大
な被害を及ぼしたのみならず、大切な聖闘士たちを多く
傷つけたテュポンをこれ以上許すことは出来ぬ。何として
も自分の手でどつき回さねば気が済まぬ故、一切の手出
しは無用
───と」
「・・・・」

 盟は眉をひそめる。

「・・・・なあ。それ、本当にアテナが言ったのか?」
「いや。正確にはもっと持って回った言い回しだったが、
分かり難かろうと思って一部意訳した。主に後半部分」
「あんたなあ・・・・・」

 真面目なのかふざけているのか、淡々とした無表情か
らは全く読めない。顔は同じでも、瞬とは全く違う。
 ・・・ふと、盟は気付いた。

「・・・・・ちょっと待てよ。今、俺の魂を正しい輪廻の輪に
戻すって言ったな?」
「言ったが?」
「でも・・・・俺、死んでるぞ?」

 ハーデスは僅かに首を傾げて盟を見返した。そんな仕
草だけが瞬と同じで、それでも苛立つ気にもならない。
どうしようもない焦燥感が湧き上がる。

「俺はテュポンの封印になったとき、既に死んでいた。
憶えてる・・・・なあ、じゃあ今俺はどうなってるんだ? 
ここにいる俺は幽霊なのか?」
「・・・いや。今のそなたは肉体を持って生きている。
呼吸も脈拍も正常だ」
「なんで? 既に死んでいる魂を輪廻に戻したら、俺は
そのまま冥界へ直行することになるはずじゃないのか?」
「ほう・・・・」

 冥王の顔に、恐らく初めて本物の感情が浮かんだ。素
直な驚きと、面白がるような色が。

「意外に聡いな。アテナより分かりが早いではないか」
「・・・って、じゃあこれはどういうこと・・・・これもアテナの
望みなのか?」
「いや。アテナには解放すればそなたは死ぬことになる
と伝えた。彼女はそう承知しているはずだ」
「じゃあ、なんで?」
「・・・・・死にたいのか?」
「いや、そうじゃないけど! でも・・・・」
「アテナはそなたが死ぬことを承知した。が・・・・」
「え?」

 ハーデスは一瞬目を細めると、唇だけで微笑んで見せ
た。

「気紛れだ」
「なっ・・・・」
「そなたが生きていたら、アテナがどのような顔をする
のか見てみたくてな」
「さ、サイテーな性格」

 そういう気紛れで人の命を弄ぶのか。

「では死ぬか? 今からでも」
「いや、それは・・・・」

 命と死と輪廻を司る神は、優しげな少女の顔に氷のよ
うな静かで冷たい笑みを浮かべたまま続ける。

「本来ならば許されぬことだがな。そなたの死の状況が
状況だったから、出来たことだ」
「何だよそれ? あんたは死人を復活させるなんて自由
に出来るんじゃないのか? 冥王だろ?」
「・・・・冥王である余なればこそ」
「────え?」

 盟は相手の真意を量りかねて眉を寄せる。だが、ハー
デスは微笑みに全てを隠した。

「そなたがまことに死を望むなら、与えてやろう。だが、
そうではなかろう?」
「ああ・・・・・」

 銀髪の少年は、ゆっくりと息を吐いた。そして、冥王
の白い顔に目を向ける。

「俺は・・・・これで良いと思っていた。俺の魂を礎に、
テュポンを封じる・・・・それが出来るなら、もう良いと
思ってたんだ。それが、俺が生きた証になるから」

 冥王は目を細めて少年を見返す。

「・・・・瞬と同じことを言う」
「えっ・・・・」
「瞬も以前、余に対してそなたと同じことをしようとした」
「瞬・・・・・」
「兄弟だな」
「な・・・あんた、知ってんのか」
「知っている。瞬は余の分身だ。瞬が知っていることな
らば余も知っている」
「そうなのか・・・・」
「アンドロメダとコーマはともに生け贄の星座であったな。
・・・・奇妙なところで似るものだ」
「アンドロメダ・・・」

 盟はふと、真顔になってハーデスに向き直った。

「なあ、瞬は今どうなってるんだ?」
「何?」
「その身体は瞬の身体なんだろ? あんたが憑依してる
んだったら、瞬は?」
「・・・ここにいる。意識を保っているかどうかは分からぬ
が」
「じゃあ・・・話させてくれ」
「何だと?」
「俺はあんたの気紛れで生き返ってんだろ。だったら、
今生きていられるうちにあいつに聞きたいことがある」
「・・・・・・」

 ハーデスは静かに目を伏せ、小さく呟いた。

「───いいだろう」



                                3章へ