「STARS」

1.TYPHON



 風が吹く。
 星明かりの中夜闇に浮かぶのは、異様な光景だった。
そびえる岩が、巨大な茸の森のように立ち並んでいる。
 アナトリア、アリマ火山───
 ≪テュポエウスの住処≫。

 そこに、ふたつの人影があった。
 ひとりは白いドレスをまとっているのに対し、もうひとり
はありがちなTシャツにジーパン姿である。
いずれにしても、出来の悪い映画か何かのように、
あまりに場違いな姿だ。

 風が吹く。
 だが、そこに立つふたりに、髪を乱す風を気にする様
子はなかった。

「Deus ex Machina───」

 ひとりが呟く。相手に聞かせるためではなく、自分自
身に対する呟きであった。

「人とギガスとは相容れぬ敵対種・・・・そしてテュポン
は彼らの王にして父。それが、母なるガイアの意思」
「・・・・・・」

 今ひとりは応えない。無言のまま、相手の横顔を見つ
める。
呟いた方も、応えを求めることはせずにあっさりと口調を
変える。

「・・・・もう一度訊く。覚悟は良いのだろうな」
「ええ」

 尋ねた方は、美しい少年だった。
 肩に掛かる髪は春の暖かな日射しとそれを受け止め
る大地を思わせる柔らかい亜麻色。
 白い顔は少年というより少女のような繊細さと清純さで、
華奢な身体と相まって天上から舞い降りた天使を思わせ
る。

 だが今、その美貌は彼本来のものではないはずの圧倒
的な神聖さを帯び、ただそこにいるだけで辺りを払うような
威に溢れている。

 応えた方は少女だった。
長い灰褐色の髪と灰色の瞳。
 十代前半の少女の姿でありながら、その顔立ちは完璧
に整っている。
 叡智に満ちた灰色の瞳は美しいが甘さはなく、凛とした
気品に満ちて輝くばかりだ。
近寄りがたいほどの神聖さと威厳が、傍らの少年と共通
している。
 少年と少女は人間ではない。人の姿をしてはいるが、
その魂は人間を超越した存在──

──神である。

 少女が口を開く。

「・・・・貴方には無理を聞いて頂いたとは思っています。
けれど、これは私が・・・私自身の手で成し遂げなければ
ならないこと。それに・・・・」
「相変わらず感傷的なことだ」

 少年は相手の言葉を冷ややかに遮る。

「今生のアテナにはまことに呆れたな。この度はこちら
にも利害がある故手を貸すが・・・・人としての心に縛ら
れて自らの道を見失うのも大概にするがいい。
何のために貴女はここにいるのだ」
「・・・・・・・」
「貴女がそんなことでは、聖闘士たちも迷惑なことであ
ろうな」
「ハーデス、私は・・・・」
「繰り言を聞く趣味はない」

 少年の言葉はひたすら冷たい。
少女は言葉を失って俯く。
 少年は冷ややかなままの眼差しで一瞬少女を見やると、
軽く肩をすくめて先へ進み出た。

「・・・・行くぞ」

 星だけが、全てを見守っていた。

 少女は戦いの女神アテナ。
 少年は冥界の王ハーデス。
 少女の名は沙織。
 少年の名は瞬。

 アテナは神として生まれながら人として育ち、今も人
の心に囚われる。
 ハーデスは自ら選んだ依代に拒まれ、肉体を持たずに
存在する。
その清らかさ故に望まれた少年は、人として生きることを
選んだ。
 そして・・・・

 少年と少女は洞窟の中を進む。
明かりも持たず、全く相応しくない服装で、それでもふ
たりの足取りは全く危なげなく迷いもない。
闇の中、明かりの代わりを果たしているのは、淡い光を
放つ神々の姿だ。

 アテナは何かを思いつめたような決意の表情で、ハー
デスは全く底の読めない無表情で、一言も口を聞かずに
闇の奥へ進む。
無言のまま進むその様は、まるで進む先にあるものを全て
知り尽くしているかのようだ。
 実際、ふたりは知っていた。
 これから、どこへ行こうとしているのか。

「もうすぐだわ・・・・」

 不意に、少女の声が闇に響く。

「・・・・・そのようだな」

 少年の声は短く応える。
 ただの人間には分からない、だがそうでない者には明
らかな空気の変化があった。
地下深い洞窟の奥から、微かに流れ出てくる空気。

「完全に封じられては、いないのかしら」
「完全な封印など、そもそもないだろう」
「それは、そうですけれど・・・・・でも、それにしても随分
不安定に思えます」
「確かにな。聞いた話では、随分強引に封じたようだし
・・・ぎりぎりで均衡を保ってはいるようだが、放っておけ
ばわずかなきっかけで崩れるかもしれぬ。
例えば・・・・地殻変動」
「ハーデス・・・・・貴方は」
「そこまで行かずとも、ここに入り込んだ何者かが岩を
触ったりした程度でも十分にありうる。こんな場所に好ん
で来る者は滅多におらぬだろうが、盟のときと同じような
ことが起こらぬとは限らない・・・・よかったなアテナ。
大義名分が出来たぞ」
「何ですって?」
「心配するな。今は貴女とは利害が一致している故、裏
切りはせぬ」

 涼やかな言葉と穏やかな笑顔はまるで裏が読めない。
 アテナは一瞬だけ柳眉を吊り上げた。

(・・・・・狸)

 心の中でだけこっそり罵る。

(瞬の顔だから余計に腹が立つわ・・・・・本体はあん
なに優しくて親切なのに)

 冥界の王の魂の器となっている少年は、常に全ての感
情を乗せて笑う。
 その笑顔は優しかったり嬉しそうだったり哀しそうだったり
と色々だけれど、どんな時もその綺麗な心が透けて見える
ようで、とても美しいと思う。
同じ顔を使っていても、ハーデスの笑顔は感情を現すため
ではなく隠すためのものだ。
全然違うから一目で分かる。

(大体瞬は人が良すぎるのよ。あんな根性悪その気にな
ったら自力で叩き出せるんだから、同じ身体貸すにしたっ
てもっと吹っかけてやればいいのに・・・・ああでも、ああ
いう性格だから選ばれたりするのかしら)

 そんなことを考えていたら、突然前を行くハーデスが
足を止めた。

「何・・・・」
「着いたぞ」

 相変わらずひたすら冷静な声が、戦いの始まりを告げ
た。


 空気が震える。
 洞窟の奥に、ホールのように広くなった場所がある。
その場に感じられる奇妙な空気の歪みは、神々の遙か
遠い記憶を呼び覚ますものだった。

「“滞る時の監獄”・・・・」
「ええ。間違いない・・・・・テュポンはここにいるのね」
「・・・・そのようだな」

 冥王はわずかに目をすがめ、ホールの最奥を指す。
女神はその先に目をやり・・・・・
そして息を呑んだ。
 岩に半ば溶け込むように、人の姿がある。
 肌や髪の色も岩と同じに変化し、そこに彫り込まれた
彫刻のようにも見えるが、髪の一筋一筋さえも見分けら
れるほどの細密さは、一種不気味ささえ感じさせる。

 それが彫刻などではないことを、ふたりの訪問者は知
っていた。

「盟・・・・・!!」
「あれがコーマか」

 それは少年の姿をしていた。
 精悍さと瀟洒さが絶妙のバランスを保った端整な顔立ち。
 一見して細身だが、見事に鍛え上げられた体格。
 そして、その身に纏った黒い鎧。
 彼の名は盟。
 アテナを守る88の戦士のひとり、髪の毛座・・・
 コーマの聖闘士。
 星なき星座・髪の毛座の聖衣は、神話の時代から邪神
テュポンを封じる要としてエトナ火山の地下深く安置され
ていた。その聖衣を纏う盟もまた、邪神を封じる星のさだめ
に殉じたのである。
 だが。

「下がっていろアテナ。コーマは自らの魂を媒介にして
テュポンを封じている。コーマを解放すれば同時にテュポン
をも解放することになる」
「ええ」
「随分とややこしい封じ方をしてくれたものだが・・・・まあ
いいだろう。これならば」

 冥界の王は微かに笑う。

「・・・ハーデス、前にも申し上げましたけれど手出しは
無用ですわ」

 戦いの女神は決然と顔を上げて言った。

「盟を・・・・頼みます」
「―――承知した」

「“滞る時の監獄”よ・・・・・」

 闇の中に少年の声が響く。本来の声と同じ、けれど決
して本来のものではない荘厳な響きを持つ美しい声。

「我が父クロノスの名において命ずる。滞る時よ・・・・・・
破れよ」

 静かな声が紡ぐのは、絶対の力を持つ言霊だ。
 少年の姿をした冥界の王は、繊手を伸ばして岩に溶け
込んだ盟に触れる。
 瞬間、岩がどくりと波打った。
 洞窟の岩壁が、いっせいにマグマの色に輝きだした。
緋い光に照らされ、盟の姿ははっきりと浮かび上がる。

「全ての荒ぶる風の親よ。そなたに相応しい場所をやろ
う。・・・・かりそめの肉体を離れ、ここに現れ出でよ」

 狼のように長く垂らした盟のうなじの髪が、大きく揺れ
た。
 岩の一部と化していた体が、本来の形を取り戻す。
 ホールの中に、闇色の糸が満ちた。
 糸は見る間に収束し、黒い鎧を形作る。
 この世のものとは思えぬ光景を、冥王は冷然と見つめ
たまま言霊を紡ぐ。

「・・・・・・目覚めよ、テュポン」

 盟の体が一際強い光を放ち・・・・そして彼は目を開
いた。

「テュポン・・・・!!」

 狼のような髪が漆黒に輝く。
 大きく開いた目は左右で色が違っている。
 アシンメトリーの奇怪な美の名残のように、少年の体に
封じられた嵐の王は歪んだ笑みを浮かべていた。
 アテナは唇を結んだまま対峙する二柱の神を見つめる。
舞台上で演じられる劇のように、
現実感のない美しい光景。
 色の違う双瞳が、目の前に立つハーデスを捕らえる。

「吾を起こしたのはそなたか」
「・・・・だから何だと言うのだ」
「・・・・おお。アンドロメダではないか。自ら贄となりに
来たか」

 テュポンの言葉は自分の関心のみを語る。
 だが、ハーデスの方もマイペースぶりはいい勝負だった。
軽く肩を竦めてあっさりと返す。

「アンドロメダ? ───余があの者に見えるのか」

 冷嘲の響きに、テュポンは首を傾げ、それからすぐに
ぎらりと目を光らせた。

「・・・・そうか。この冷たい小宇宙はアンドロメダの
ものではない。そうか、貴様か“隠れたる者”・・・・・」
「やっと気付いたか」
「そうか。いずれ名のある神の器であろうとは思ったが、
まさか王の称号を持つほどのものであったとはな。
・・・素晴らしい。ますます喰らってやりたくなった」
「・・・・・」
「その美しさ、その清らかさ、そしてその小宇宙・・・・
強大でありながら荒ぶることを知らぬ。これほどの贄は
今生、望めまい・・・・喰らってやる。・・・いや、我が傀儡
としようか。おお、そうだ。盟よりもはるかに、よき傀儡と
なろう」
「・・・下らぬ。余がそなたなどにこの身体を譲ると思
うのか愚か者」
「若く美しいアンドロメダ・・・・・吾にその身を捧げよ」
「断る」

 一言の下に撥ね付けると、ハーデスは凛と声を上げた。

「余はアテナと違って、そなたと無意味な話し合いとやら
をするつもりはないのだ。テュポンよ。そなたにふさわしき
場所はこの身ではない。もちろん、コーマの身体でもない。
幽冥の底へ帰るが良い!!」
「なにっ・・・・・」
「盟!!」

 異母兄の名を呼んだ声は、それだけは何故か瞬の声に
聞こえた。
 テュポンが目を見開く。その瞳から色の違う光が失せ、
髪が見る間にシルバーに染められた元の色に戻っていく。
 唐突に、「盟」は糸の切れた操り人形のように崩れ落ちた。

「盟!」

 アテナが・・・沙織が叫ぶ。ハーデスは動じることなく、
自分よりも身長で10センチ以上、体重で20キロ近く大き
い相手の身体を易々と受け止めた。

「馬鹿な。なぜ盟の肉体が吾を・・・・・」
「アテナ、後は任せるぞ」
「・・・・ええ」

 顔は上げたまま、盟の身体から抜け出したテュポンに
向けたままでハーデスは言う。
 アテナはゆっくりと進み出た。

「テュポン。盟は返してもらいます。それに、あなたの
相手は私です」

 テュポンの関心がそちらに向いたことを確認すると、
ハーデスの顔にかすかに微笑みが浮かぶ。
 意識のない盟の体を抱いたまま、冥界の王はその二つ
名の通り姿を消した。




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