第9章
「トスカのように」


ネオトキオ、マグナポリス38分署。
3C社への調査を行ってから、一ヶ月ほどの時間が流れた。
ジョセフィーヌ・コレクションについての手かがりは一向に掴めず、クリスタルナイツの表立った行動も無く、膠着状態なある日
権藤は、リュウとクロードに命じた。

「スイスに、出向いて欲しい」

権藤は、事の詳細を説明した。

「スイス空軍にいる中尉が、ルードヴィッヒと大学の同期でな。しかも彼はカイゼルの甥の友人でもあるため、そのよしみで私達の調査にも応じてくれるそうだ。だから明日、リュウとクロードはスイスに向かって欲しい」

それから二日後。
リュウとクロードは、ジュネーブ国際空港からエアカーで空軍基地に向かった。
基地のあるペイエルヌは、ジュネーブから北東に120km向かった先にある。
クロードの運転で、助手席に乗っているリュウは外の光景をぼんやり見ていた。

「いい眺めだねぇ…こんなとこ、チョッパーで思いっきり飛ばしてみたいわ。おやっさんも、チョッパーかビートルを旅のお供に連れてきてくれてもいいのによぉ」
「今回は、たかだか話を聞くだけですよ。それだけのためと、ダンナの道楽にバカ高い輸送費かける訳にはいかないの」

クロードの返しに、リュウはむくれ面でスイスの光景を眺めた。

ペイエルヌ空軍基地。
耳を裂く航空音の下、二人は目的の人物に合うため施設に向かった。
面会手続きの際、所有している通信機の切断を要求される。

「…おやっさんにゃ悪いけど、報告は基地を出てからだな」

二人は外部通信に使用する機器を一切止め、面会用の会議室へと向かった。
会議室に現れたのは、一人の青年。
肩幅の広い大柄な体系で、短い巻き毛の赤い髪。そばかすのある顔も幅が広かった。
しかし表情は柔和で、口元に笑みを浮かべて二人を迎えた。

「ようこそ、マグナポリスの皆様。マクス・マイファルト中尉です」
「クロード・水沢です。本日はお目にかかり光栄です」
「同じくウラシマ・リュウです」

三人は席に付き、マクスから話を切り出す。

「カイゼルさんにお願いされたんだけど、さほど大した事は言えないよ。それでもいいのかな」
「はい。何でも、記憶にある事をお願いします」

窓から漏れる陽光を背に、マクスは手を組んで物思うように語り始めた。

「僕、同期っていっても、殆ど彼と接触はなかっんたんだよね。と言うか、ルードヴィッヒは誰ともつるんで無かったと思う。いつも一人で本ばかり読んでいる、そんな男だった」
「……」
「成績はトップだったし、外見も…俺なんかとは雲泥の差。だから一目は置かれていたよ。中にはあいつをパウダーブレーンなんて呼んで揶揄するやつもいたけどね。ただの僻みさ」

リュウがクロードに聞く。

「どゆ意味?パウダーなんとか」
「色白でガリ勉って事。口の悪い奴は何処にでもいるね。それで…」

クロードが訊ねる。

「こちらの聞いた話では、在学中にネクライムから声がかかったとか」
「そうらしいね、他にも何人かいたみたい」

えっと声を上げる二人。

「どうやら、大学のOBに仲介人みたいな奴がいたんだ。逮捕されたけど。で、有能な学生に秘密裏に話を通す。すごいね、犯罪組織が青田刈りか…」

他人事のように笑って離すマクスに、クロードが聞いた。

「あの、失礼ですが…」
「僕は声かからなったよ、頭悪かったからね。ルードヴィッヒの場合はなんだったけ…そうそう、機関紙での論文か」

リュウが聞く

「どんな内容か、分かりますか」
「うん『シビリアンコントロールの限界点と進化方向』ってテーマ。最初のうちは僕も読んでたけど、段々難しくなってやめた」

目をきょとんとさせているリュウに対し、クロードが難しい顔をする。

「文民統制について言及してたんだ。意外だな」
「クロード、それなに…」
「後で説明しますよ」
「ああ、概要としては、文民統制に見せかけた独裁社会を構成するためのロジック。ハイパー・シビリアンコントロールって概念を打ち出してた」
「なるほど…それがヒューラーに気に入られた訳ね」

リュウがぼやいた。

「…他に就職する事は考えなかったのかな…お貴族さんが犯罪組織なんて、相性悪すぎるぜ」

それに、マクスが応える。

「軍人貴族か、あれ、立場的に辛いんだよね」
「?」
「彼の事は分からないけど、大学には他にも同じような境遇の学生がいてね…考えてもみてよ、貴族階級なんてこの21世紀になんの得もないよ。昔みたいにふんぞり返って金が入ってくる訳じゃなし、それでも寄付やら社会奉仕は求められる。で、ステータス維持の費用もかかるから、結構カツカツだよ。僕、一般庶民でよかった…」

また笑うマクスに、クロードが訊ねる。

「ルードヴィッヒが、大富豪の令嬢と付き合いがあった事は、ご存知ですか」

マクスは目を丸くさせた。

「そこまでは知らないけど、あいつの彼女なら、一度見た」

えっと驚きの声を上げる。

「どこで…」
「ご令嬢かどうか分からないけどね、一度来たんだよ、大学に」
「その女性、巻き毛のブロンドで、大きな青い目の…」
「そうそう。いやー、目の覚める美人てああいう人なんだろうな。女優かと思ったら、資産家の娘か…やるね」
「ジョセフィーヌは、何故来たんだろう」

リュウがつぶやく。

「へぇ、そういう名前なんだ。うん、あれは随分寒くなった時かな、11月くらい。門の前に立っててさ、大きいカバン抱えて、いかにも家出って感じ」
「……」
「教室移動の最中に気づいたルードヴィッヒが走っていった。思いつめた顔で何か話しててさ、なんか駆け落ち?そしたら彼女抱きついて来てさ…僕、ドラマか映画の撮影かと思って、カメラ探しちゃったよ…」

笑いながら続ける。

「当然、ギャラリー集まって注目されてさ。あいつ、そのままタクシー拾っていなくなった」
「その後は…」
「わかんないよ。ま、しばらくは学校来なかったけどね、仕方ないか…」

リュウとクロードは、呆然として顔を見合わせた。

その後、幾つか話は聞いたが、特に有益な情報と思われるものは無く、二人は基地を後にした。
戦闘機が上空を行きかう基地を出ながら、クロードが深く溜息をつく。

「資産家のご令嬢に、押しかけられですか…」

リュウがうつむいて肩を落とす。

「いいねぇ…経験してみたいわ」
「それに比べて…」
「…俺達ときたら」

二人の頭上を、航空機が通過していった。

帰りの車に乗って、クロードが切り出す。

「ま、これといった収穫は無しだから、おやっさんには夜にまとめて報告するか」
「だね、これからどうすんの」

クロードはニヤっとする。

「ジュネーブで、スイス美人とフォンデュ食べながらデートってどう?」
「いいねぇ~」



同じ頃、マグナポリス38分署。
ソフィアは、頬杖をついてぼやいていた。

「いいなあ、スイス。あたしも行きたかった~」
「二人とも遊びに行っとるんじゃない。仕事じゃ仕事!!」
「それは分かってるけど~」

ソフィアは、モニターにスイスの地図を映し出す。

「リュウとクロード、何処に行ったんですか?」
「ん?確かペイエルヌとかいっとったな。ジュネーブから北東方面だ」

ソフィアは地図を指でなぞる。

「ふーん、ここかー」

何気に、スイスの地形を指でなぞり続ける。

「やっぱりアルプスよね~そしてスイスと言えばレマン……」

レマン湖に差し掛かった瞬間、ソフィアの指先が閃光を発して、軽く弾ける音を立てる。

「きゃあっ!!」
「どうしたソフィア?!」

手を押さえて、痛みを堪えながら言う。

「レマン…この辺りに、何かあります…」



スイス、ジュネーヴ午後9時
リュウとクロードはディナーを堪能してホテルへと戻ってきた。

「フォンデュうまかったー☆」

リュウはそれなりに満足しているが、クロードは不満げにベットに横たわった。

「これで、綺麗な女性でも側にいれば、もっと美味に感じられたんですがね」
「仕方ないだろ、ナンパことごとく失敗しちまったんだから」
「…ったく、なんでスイスまで来て、ダンナと二人きりのディナーなんだか」
「しゃーねーじゃん、仕事なんだから…」

そこで、クロードがはっとして身体を起こした。

「そうだ、おやっさんに連絡とらないと!!」
「あ、そか…おい、俺達もしかして…」

リュウが腕の通信機を見て引きつった笑みを見せる。

「今までずっと、電源切ってたようです…」
「あー、空軍基地で消したまんまだ」

二人は慌てて、通信の電源をONにして、マグナポリスに連絡を行ったが…

「ばっかもん!!」

始めに聞こえたのは、権藤の怒鳴り声であった。

「おまえら今まで何処にいた?!なんで電源を切りっぱなしにしとるんじゃ?!」

リュウが頭をかく

「ははすいません…基地で切れって言われたもんでー」
「それにおやっさん、今日の調査では特にこれといった情報は無かったんだ、だから…」
「お前らに無くても、こっちはあるんじゃ!!」
「え?!」
「ソフィアが、また地図に反応した。どうもレマンの方になにかあるらしい」

クロードか聞く

「女神様の千里眼、発揮されたんですか?」
「ああ、レマン湖畔に強い反応を示した。明日からでも、その方面に調査を入れたい」

リュウが手を上げた

「一つお願いです~」
「ん?」
「クリスタル・ナイツに関わる調査だろ?それなら、馴染んだ車使いたいんだけど」
「…言われなくとも、わしとソフィアもスイスに向かうわい。メカ分署ごとな」
「いやったー☆ほんじゃま、明日のために今日は休みますか」



深夜、モントルーの別荘。
ルードヴイッヒは寝室で深く寝入っていた。
夢の中で、あの雪の日が蘇る。

財産譲渡のための書類が出来たと連絡が入り、ルードヴィッヒがキャッツバーグ家に着いた時は、雪が降り積もり始めていた。
車を降り、雪の中を邸宅に向かう。
扉を開けると、純白のドレス姿のジョセフィーヌが駆け寄ってきた。
スリットの入ったスリムのロングドレス、肩には薄手のジョーゼットのマントが付いているデザインだ。

「今日のオペラの為に仕立てたの、どう?」

笑顔で訪ねる彼女に、軽く笑って答える。

「天使が降りてきたと思ったよ、良く似合う」

機嫌よくジョセフィーヌは笑って、二枚のチケットを出した。

「ボックス席で良かったかしら?」
「ああ、演目は?」
「『トスカ』よ。早く契約を終わらせてね」
「ああ、父上は2階かい?」
「ええ…でも、喧嘩とか、しないでね」
「分かってる」

不安げな彼女の唇に軽くキスをして、頬を寄せて囁く。

「部屋で待っていてくれ、なるべく早く終わらせる」
「ええ」

白いドレスの彼女を残して、書斎へと上がった。

キャッツバーグの抱えている財産の規模から考えて、書類はかなりの量があった。
一枚一枚目を通し、確認を終えた頃には外の雪はより強さを増し、吹雪になっていた。
最後に出された書類には
『我がキャッツバーグ家は、誇り高きルードヴイッヒ家の名誉の回復と、その栄光を称え、ここに全ての財産を譲渡する』
と書いてあり、キャッツバーグ卿のサインが記されている。
後は自分がサインをすれば、全ての財産が手に入る。

「これで、私の財産は全て君のものだ。せめて…ジョセフィーヌは幸せにしてやってくれ」

娘を物扱いした立場で何を言うと、ルードヴイッヒは少し怒りが込み上げた。
身勝手な男の鼻を明かしてやろうと、皮肉交じりに投げかけた言葉。

「幸せだと…?…私には、愛や幸せなど必要ない」

突如、陶器の割れる音が響いた。
扉の方を見ると、蒼白になって立ちすくんでいるジョセフィーヌがそこにいる。

何故だ?
部屋で待っていたはずの彼女が、何故そこにいた?

青白い顔を背け、室内から走り出て行く白いドレス姿を必死に追った。
何処へ行ったと廊下に出て探し、上部の階段を駆け上がる音を追いかけて走る。

最上階に着き、開け放たれて吹雪が舞い込む扉を抜けると。
拭き荒む雪に溶けいるように、純白のドレスをひらめかせて、屋上の端に立つ姿。
己を一瞥するように青い眼を向け
駆け寄る足音にも、差し伸べる手にも構わず
吹雪の中、地上に堕ちた天使。

あと少し
あと少しで、手に入るはずだった、太陽。

日差しは閉ざされ
全てが、闇に塗られた人生の始まり。

はっとして目を覚まし、辛そうに額を抑えて起き上がった。

空気が寒々しい、見るとバルコニーの扉が開いている。
ベッドを出て扉を閉め、月の映るレマンを見つめた。

あの雪の日、息絶える寸前のジョセフィーヌから渡された宝を
いよいよ明日、呼び覚ます。



雪が、降り始めてきた。
ジョセフィーヌは、待ちきれないように今夜のオペラで着るドレスを纏い、鏡の前で身なりはおかしくないと確認していた。
そこに、一台の車が現れる。
間違いないと歓喜の気持で、玄関に出向いた。
アイボリーのスーツに、コート姿のルードヴィッヒが現れる。
彼にドレスを披露した。

「今日のオペラの為に仕立てたの、どう?」

笑顔で訪ねる彼女に、軽く笑って答える。

「天使が降りてきたと思ったよ、良く似合う」

機嫌よく笑って、二枚のチケットを出した。

「ボックス席で良かったかしら?」
「ああ、演目は?」
「『トスカ』よ。早く契約を終わらせてね」
「ああ、父上は2階かい?」
「ええ…でも、喧嘩とか、しないでね」
「分かってる」

唇に軽くキスをして、頬を寄せて囁く。
彼の唇と頬は、雪の中を歩いて来たためか、とても冷たかった。

「部屋で待っていてくれ、なるべく早く終わらせる」
「ええ」

暖かな部屋の中で、ジョセフィーヌは鏡に向かっていた。
今日付けていくルージュの色が中々決まらず、塗ってはふき取りまた塗って軽く息を付く。
室内には「トスカ」の音楽が流れている。
観劇前の予習にと流している音楽を聴きながら、心はすでにボックスで二人寄り添いオペラを見ている情景を想像し、心は躍っていた。

鏡台の前に置かれている、ダイヤのネックレスとピアス。
指輪は付けない、明日手に入るから。
ブリリアンカットのネックレスを首にあて、明日は同じカットの指輪をお願いしてみようと考える。
チケットを手に取り、改めて日付と時間を確認し、鏡台の前に置いた。

少し時間が経ち、外の雪が強さを増していることに気付いた。
早めに出なければ間に合わないのではないかと、不安が過ぎる。
少し様子を見てみようと、廊下に出た。

室内には、ラストで歌われるアリア「歌に生き、愛に生き」が流れ始めた。

 
Vissi d'arte, vissi d'amore, (私は歌に生き 愛に生き)
  non feci mai male ad anima viva! (他人を害することなく)
  Con man furtiva (困った人がいれば)
  quante miserie conobbi aiutai. (そっと手を差し伸べてきました)


廊下に出ると、お茶を運ぶメイドの姿が見えた。

「アンヌ、それは書斎に運ぶお茶かしら?」
「はい。旦那様に頼まれまして…」

メイドの手から、盆を取り微笑む。

「私が持っていくわ」
「え、いけません、お召し物が汚れます」
「大丈夫、注意するわ。それに…」

階段に向けて、歩を進ませる。

「ちょっと心配なの、喧嘩でもしていなければ良いけれど…」

銀色の盆を携えながら、階段を一歩、また一歩と上がってく。
ジョセフィーヌの去った室内からは、アリアが静かに流れ続けていた。
 
 
Sempre con fè sincera (常に誠の信仰をもって)
  la mia preghiera (私の祈りは聖なる祭壇へ昇り)
  ai santi tabernacoli salì.


書斎のドアは少し開いていた。
あの向こうに、私の幸せが待っている。
一段一段昇るたび、胸は希望に高鳴っていた。

 
empre con fè sincera (常に誠の信仰をもって)
  diedi fiori agli altar. (祭壇へ花を捧げてきました)


契約が終わったら、二人でオペラに行き
そして、二人だけの夜を過ごし
明日、指輪を選びに行く

あの扉の向こうにいる人だけが
私を魂ある者と認め
私を、幸福に導いて
私を、愛してくれる人

扉に手を掛け、一歩踏み出た瞬間
信じられない言葉が聞こえた


「私には、愛や幸せなど必要ない」


誰もいない部屋で、アリアが流れている

 Nell'ora del dolore (なのにこの苦難の中)
 perché, perché, Signore, (なぜ 何故に 主よ)
 perché me ne rimuneri così? (何故このような報いをお与えになるのですか?)


全身が凍てつき、足元に落とした陶器の響きすら耳に入らない。
自分に振り向いた、あの人の顔を見るのも辛かった

貴方も同じ、だったのですね

無我夢中で走り出し、階段をひたすら駆け上がる。

必要は、無いのですね
私の愛も、心も、必要は無かったのですね

やはり貴方も「物」としか見なかったのですね


誰もいない部屋で、悲しげな歌声が流れる

 Diedi gioielli della Madonna al manto, (聖母様の衣に宝石を捧げ)
 e diedi il canto agli astri, al ciel, (星々と空に歌を捧げ)
 che ne ridean più belli. (いっそう美しく輝いた星々)


鏡台の前に置かれた、数本のルージュ
ブリリアンカットのネックレスとピアス
二枚の、オペラチケット

全てが置き去りにされた部屋で、アリアだけが響く

屋上へと駆け上がる足は、止まらない。
今にして…
今にして思えば

最後に触れた頬と唇は
氷のように、冷たかった。

そういう事、でしたのね

私の「魂」に価値は、無いのですね

最後の扉を開けると、目の前は吹雪
薄いドレスの下の皮膚を刺す様な寒さの中、歩み続ける

この痛みも、貴方には分からないのでしょう

屋上の端に立ち、一望する景色はただ一面の雪
色の無い、魂を感じさせない世界を見つめる

主無き部屋で、ただアリアが流れる
約束を反故にされ、全てを裏切られた
悲しい女の、歌声が響く

 Nell'ora del dolore (なのにこの苦難の中)
 perché, perché, Signore, (なぜ 何故に 主よ)
 perché me ne rimuneri così? (何故このような報いをお与えになるのですか?)


背後に、雪を踏む足音が近づいてきた。

それでも、私の愛しい人
私の持っている物を、全て差し出すと誓った方
それなら…

一度振り向き、彼の目を見る

貴方が欲しいものを差し上げましょう
そして
必要の無い「魂」は


もう、捨ててしまいます。


誰もいない室内は
最後のアリアが終わり、沈黙になる


知っていますか


歌劇「トスカ」のラストを

全てに裏切られた歌姫トスカは
絶望のあまり
城壁から、身を投げて


亡くなります。











深夜。ジュネーブのホテル。
バスルームから届く水音に、クロードは目を覚ました。
何かと思って見に行くと、顔を洗っているリュウがいた。

「ダンナ、まだ朝じゃありませんよ」
「わっ!!…あ、ごめん、起こしちまったか」
「まいいですけど、どうしたんです?」
「いや何でもね……変な夢見ちまって…」

タオルで顔を拭き、小声で呟くように返す。

「どんな夢ですか…」

タオルで顔を覆ったまま、少し考えてから答えた。

「顔、洗ったら…忘れたよ…」
「あ、そう」

先に寝ると、クロードはバスルームを後にした。
一人残ったリュウは、深く溜息を付く。

「ったく…」

洗面台に手を付き、がくりと肩を落とした。

「なんだってんだよ、もう…」


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