第8章
「Fantastic Leman」


クリスタルナイツ、ネオトキオの本部。
地下にある分析室では、キャットが悩むように機器を操作していた。
そこに入ってきたのは、ルードヴィッヒとホーク

「袋小路に、入ったようだな」

ルードヴィッヒの言葉に、キャットは申し訳なさそうに頭を下げる。
背後からホークが説明する。

「このチップ自体に含まれる情報は、サーバへのアクセス方法ですが…幾度かパスを求められまして…」
「てこずっていると言う訳だな、席を替わってくれ」

キャットは席を立ってルードヴィッヒが座り、手前のキーを操作する。

「なるほど、複数パスか」
「今、解析ツールにかけておりますが、かなり時間がかかってまして」
「そうだな」

キャットの言葉に、ルードヴィッヒはキーを叩いた。
一度、エラーになる。

「…エラーが3度続くと、また始めからの入力になります」
「うむ」

ルードヴィッヒはパスの入力を止め、チップ全体の情報をモニターに移す。

「パスは5箇所か…」

低く呟いて、再び入力を行った。
一度目のパスが通り、なるほどと頷く。
そのまま、軽快な操作で4回の入力を行い、見る間に全てのパスが通る。
キャットが驚いて訪ねた。

「…どうやって…」
「詩篇か…味な真似をする」
「…?」
「旧約聖書の詩篇の冒頭文字だ。一度流れが分かれば造作も無い」

話をしている間に、サーバへのアクセスが可能になり、目的のデータが次々にモニターに表示される。
驚くキャットとホークに対して、ルードヴィッヒは落ち着いて呟いた。

「…レマン、か」

席を立つと部屋を出ながら告げた。

「あとの分析は、お前達に任せる」


その日の夜。
ルードヴィッヒは、分析されたデータを元に説明を行った。

「コレクションの場所だが、スイスのレマンにある」

モニターに、レマン湖と周辺の地図を写す。
ミレーヌが語った。

「世界で最も美しい湖…素敵ね」
「ああ、しかしややこしい場所にある」
「…?」
「レマンは、その面積の60%がスイス40%がフランスにある。湖のほぼ中央に国境があるようなものだ」

湖の国境線を指で指す。

「従って、警備のためにスイスが水軍を駐留させている…それと」

レマンの西端、ジュネーヴを指した。

「ここには、国際警察の本部が置かれている。司令官のカイゼルは未だにクリスタルナイツの捜査に念を入れていて、言わば私達には目の上の瘤だ。だが、幸いな事に…」

ジュネーブとは反対側、レマンの東端を指す。
その街の名は、モントルー。

「コレクションは、この近辺に隠されており、ジュネーヴからは50kmほど離れている。これで、目くらましが可能だ」

ルードヴィッヒは顔を上げ、隊員に告げた。

「モントルー周辺に滞在できる場所を探してくれ。それと爆薬、兵器類を出来る限り多く集めて欲しい」



それから10日ほど経ち、ルードヴィッヒ達はスイスのモントルー郊外にある別荘に移動した。
古城をイメージした落ち着いた広い別荘。
大広間のバルコニーからは、青く澄んだレマン湖が一面に広がる。

昼下がり、ルードヴィッヒはバルコニーに立ち、青い湖面を見つめていた。
この湖の何処かに、ジョセフィーヌ・コレクションが眠っている。
白いバルコニーと青い水面に、過去の記憶が蘇る。

6年前、春のコートダジュール。
休暇で訪れた先で、海を見つめていた時に聞こえてきた、軽やかな笑い声。
春の日差しにも似た鮮やかなブロンド。
陽光を返す海に似た、輝く美しい瞳。

何気に入った映画館で、偶然めぐり合う女優のように
彼女は目の前に現れた。

目を奪われてその姿を追ううち、視線に気づいたかのように自分に顔を向ける。
スクリーンの中の女優が、画から抜け出した瞬間
自分にだけ向けられる柔らかな笑顔に魅入る。

だがすぐに、傍らの紳士の鋭い眼差しに遮られ
やがて彼女は遠ざかり、またスクリーンの中へと戻っていった。

映画の続きは、その翌日に始まった。
昨日の女優が、自分の別荘を訪れて詫びに来たのだ。

「昨日父から聞いて分かったの、貴方に失礼な事をしたみたい…」

彼女は昨日、父が嫌悪の目を向けたことを知ったという。

「私の父、心配性で…誰に対してもああなんです。ですから、貴方がお気になされていたらと思うと、申し訳なくて…」

丁寧に詫びる彼女に、別は気にしていないと答え、礼にとカフェに誘った。
そこから、密かな交際が始まった。

初夏の夕刻。
港に面したカフェで、初めて贈られた品物はモスグリーンのネクタイ。

「いつも、暗い色ばかり付けているでしょう。でも、明るい色の方が似合うと思って」

自分の好みでは無かったが、断る理由も無く身に付けてみた。

「素敵、とても似合う」

柔らかな、輝きを放つ微笑み。
寄り添い合って歩きながら、彼女が切り出す。

「…来月、クルージングはどう…?」

そうして向けられる瞳は
吸い込まれるほどの、クリアブルー。

目の前に広がるレマンの湖面にも、似て。

「ルードヴィッヒ」

背後から、ミレーヌの声が聞こえた。
盆の上に、グラスを二つ乗せて歩いてくる。

「お邪魔だったかしら」
「いや、それは?」

グラスに入っている飲み物は、薄いブルーの色をしていた。
ミレーヌは微笑んで答える。

「たまには、カクテルもいかが?この場所にふさわしい飲み物よ」

一つを、ルードヴィッヒに手渡した。

「このカクテルの名前は、ファンタスティック・レマン」
「…なるほど」

ふっと笑みが漏れる。
ミレーヌは自分の持ったグラスを掲げた。

「計画の成功と、私達の繁栄のために」
「乾杯」

レマンをバックに掲げられたカクテルは
まるで、湖の水を汲み上げたかのように
青く、澄んでいた。



それから10日ほどが過ぎた。
大広間で、スティンガー部隊が調査の報告を行う。
キャットが地図をモニターに移しながら説明をする。

「…無人機の調査では、フランスとの国境付近に何かの空洞が察知されています。その形状は…」

モニターを切り替えた。湖底に細長い空洞が地下に伸び、四角い部屋のような空洞がある。
ルードヴィッヒが聞く。

「中までは確認できないか…」
「はい。通路と思われる空洞は約50m。あの機器の性能では、室内の様子までは…」
「分かった」

ベアーが語った。

「それに、このまま通路の蓋を開けると、水が流れ込みます。一度水抜き用のエリアが必要ですね」
「それは、どのくらいで作れる?」
「1−2時間もあれば」

ルードヴィッヒは少し考えて呟いた。

「設置に2時間、取り出しは鍵がかかっていなければ1時間程度か。ここからだと船で約10km…一晩で出来るな」

ウルフが頷く。

「はっ。後は駐留している軍の注意を他に向ければ」

ルードヴィッヒは、小さく頷く。

その日の夜。
ルードヴイッヒは、別荘の寝室で一人ワインを傾けていた。
明日からいよいよ、ジョセフィーヌ・コレクションを取り出す作戦が開始される。
窓際に置かれている金の時計に目をやる。
その隣には、黒く光る悪魔の壷が置かれていた。
グラスを置いて、椅子に背を預けながら、壷と時計を目に映す。

キャッツバーグは美術品収集でも名の知られた人物で、掘り出し物には目が無いとジョセフィーヌから聞いた。
古物商に話を通して挨拶代わりにと購入した壷は、決して安い買い物ではなかった。
だがこれで多少の機嫌はとれるだろうと踏んだ。

そして、2045年の秋に、キャッツバーグ家を訪れた時。
その期待も予想も見事に裏切られた。

握手を求めようとした矢先に頬を叩かれ、自分の家を蔑まれ

「この男の目は、欲望に満ちている!!」

そうなじられ、壷も砕かれた。
だが次に、誰も予測し得ない事態が起きた。
粉々になった壷が、逆再生のように自ら元通りになった時
キャッツバーグ卿は顔色を変え、自ら壷の前に膝を落とした。

「まさか…」

震える声で、自分に顔を向けてキャッツバーグは語った。

「本物…か?」
「…!」

その一言に
心の奥に抑えていた、怒りが湧き上がる。
キャッツバーグの手が、壷へと伸ばされる。

「噂には聞いていた…だが、海底に沈んだと…それがここに」

壷に手が触れる直前、ルードヴィッヒはその壷を掴み上げて拳を握り締め、腹の底から声を上げた。

「その道で名高いと言われているキャッツバーグ卿に、贋作を贈りつけるとお思いですか!!」
「ルードヴィッヒ…!」

制するジョセフィーヌの声も聞かず。足元の男に怒りの目を向けた。

「そちらの大切なご息女との交際を申し込むのに、生半可な品は選んでおりません!!ですが、そこまで愚弄されては黙っておりません」

うろたえて立ち上がるキャッツバーグに一歩引いて、鋭い目で一瞥すると踵を返す。

「このアドルフ・フォン・ルードヴィッヒ、おっしゃられるように低い地位のものですが、200年続いた貴族の血筋に誇りはあります。それをなじられてまで、この家と関わる気はありません!!」

待ってくれと後を追うキャッツバーグを振りきり、ルードヴィッヒはドアを強く締めた。
足早に邸宅を出て車に乗ると、ジョセフィーヌが窓にすがってくる。

「ごめんなさい!!父も悪いと思ってるわ…!…だから…」
「ジョセフィーヌ」

顔は向けず、静かな声で返す。

「…君の事を嫌いになった訳ではない。だが、私にも守るべき一線はある。それを踏みにじられた今、歩み寄る術は無い」
「ルードヴィッヒ…」
「車から、離れてくれ」

震えて立ち尽くす彼女に目は向けず、車を走らせる。
バックミラーに、泣き崩れる姿が映った。


あれから数日後。
ルードヴィッヒは、下宿先の私室のソファで仰向けになり、腕で顔を覆い横たわっていた。
傍らのテーブルには、数本の飲み干したワインの瓶。
酔った頭に、様々な思いが巡る。

いつも、そうだった。
父の代より、一般の庶民からはいつまでも称号にこだわる古いものと揶揄され、富裕層からは財も無いのに名ばかり欲しがると詰られていた。
厳格な父親は、それが貴族を名乗るものの運命だと説いたが、差別的な扱いに慣れたとして何があると疑問は膨らみ、それは世間への恨みに代わり
現状を変えるための思想思考を身に付け始めた。

不満を吐き出すのは下衆のやる事だ。嫌なら自ら変革しろと思い続けた。

突然、室内の電話が鳴った。

酔った頭を起こし、受話器を取る。

「…ジタンダか?…ああ、その話か?…なら伝えてくれ、私は貴方にこの壷を渡す気は毛頭ないと…うん…」

話を聞いていて、深い溜息をつく

「分かった、自分で対応しよう。今度電話が来たらここの番号を教えてくれ」

そうして電話を切り、また倒れるようにソファに背を預けた。

程なくして、また電話が鳴った。
掛けて来た相手は、おそらく予想がつく。
受話器を強く握り締めて、耳に当てる。

「ルードヴィッヒ君…?」

予想通りの相手の声に、怒りがこみ上げた。

「先日は済まなかった…件の壷だが…」
「もうその話は…!」
「100億だす!!」

その言葉に、怒りが増して押し黙る。

「…200億でもいい……なら500…」
「貴方は、何も分かってない!!」

声を荒げて、強く受話器を置く。
電話機の電源をOFFにしてベッドに行き、倒れこむようにして眠りに付いた。

その日以来、キャッツバーグから連絡は来なくなった。
一週間ほど経った、秋の深まったある日の夕刻。
大学での講義を終え、廊下に出たとき他の学生の声が耳に入る。

「見た?表門にいる娘」
「ああ、すげー美人。シャーロット・ランプリングって知ってる?」
「いや」
「その女優にそっくりなんだよ…」

女優の名前にはっとして、校舎を出て門に向かった。
柵の閉じた門の前で、警備員に必死に何かを語っている者がいる。
大きなバッグを抱えた、白のロングコート姿の、金髪の女性。
近づいてくる自分の姿に気付いて、大きく呼びかける。

「ルードヴィッヒ!!」

目に涙を溜め、吹き荒む風に頬を冷たくさせて、柵にしがみ付いてきた。
警備員に門を開けてもらうと、彼女はすぐに胸にしがみ付いてくる。

「…ジョセフィーヌ」
「ごめんなさい…でも私、貴方の下宿先は知らなくて…ここにくれば会えると」

背後に、野次馬が集う気配が分かった。
中には、ふざけて口笛を吹くものもある。
それらを一瞥すると、足早に大学を出てタクシーを拾った。

ルードヴィッヒは、タクシーの運転手にキャッツバーグ家へ行ってくれと指示したとき、ジョセフィーヌは訴えるように叫んだ。

「見て、分からない?私、家出してきたの…」
「ジョセ…」
「あの家には、もう、いられない…」

泣き崩れる姿と、行き先を告げられず困っている運転手に仕方ないと
ミュンヘンの、下宿先へ向かった。

「素敵な、お部屋ね…」

室内に通されて、ジョセフィーヌは小さく呟く。

「先代が亡くなった部屋をそのまま使っている。調度は悪くないが、幾分狭い。君の住まいに比べれば…」
「そんなこと言わないで!!」

首を振って否定するジョセフィーヌをソファに座らせ、空調を入れて暖炉に火を付けた。
紅茶を入れているルードヴィッヒの背後で、ジョセフィーヌは震えた声で語りだす。

「父は…あの壷を見てからすっかり人が変わってしまったわ」

だから売ってくれと交渉に来たのかと、予測する。

「毎日毎日、貴方のお宅に電話をして…金は幾らでも出すと…」

俯いて語る彼女の前に紅茶を置き、向かい合わせに座る。

「私にもこう言った…お前を嫁がせれば、壷が手に入るだろうと……でも、私は物じゃない!!」

首を振って、涙と共に叫び声を上げる。

「大切な一人娘と…その言葉を信じていたのに…」

泣き崩れ、手で顔を覆い、震える声を出す。

「結局私も、父の財産の一つでしかなかった…もう私は…あの家にいたくない…」

彼女はふらりと立ち上がり、ルードヴィッヒの傍らに跪いて腕に縋る。

「ルードヴィッヒ…貴方が…貴方だけが…私を愛してくれる人…お願い…私を側に置いて…」
「ジョセフィーヌ…」
「何でもするわ、私の持っている物を全て上げます。だから私を…」

ルードヴィッヒは、ジョセフィーヌの腕を掴んで、共に立たせた。

「ルードヴィッヒ…」
「そんな懇願の仕方は、君には似合わない。それに、君に詫びなければならない事がある」
「…え?」
「私は、君がここに来たのは、あの壷を譲ってくれと頼みに来たからだと思っていた」

ジョセフィーヌは首を振った。

「売らなくていい。貴方を貶めた事を言った父に、売らなくていいわ」
「ジョセフィーヌ…」

悲しみに震える肩を、そっと抱き寄せ、耳元で囁く。

「君をここまで追い詰めたのは、私のせいだな。申し訳ない…」
「いいの!謝らないで…お願い…」

二人の腕は、徐々に互いの背に回る。
背後で燃え盛る暖炉で、薪の割れる音がした。

「お願いだから…私を、連れて行って…」
「ジョセフィーヌ…」
「付いていくわ…貴方の望む所に…何処までも…」

堅く抱きあった二人の唇が、深く重なった。


暖炉が燃える傍らのベッドで、腕を絡ませ抱き合って、深く求め合う。
久し振りに抱く彼女の肌は、柔らかく少し冷えていた。
体内の熱を取り戻すように、互いを求め合って四肢を絡め合い
やがて、安堵したように床に沈み、深い眠りに付く。

ルードヴィッヒは身を起こして、ジョセフィーヌの寝顔を見た。
暖炉の火に照らされて、朱に染まるその横顔は、穏やかな寝息を立てている。
冷え込み始める季節の中に現れた、真夏の太陽。
炎に照らされるブロンドの髪、朱に燃える頬。
その姿を見つめながら、ルードヴィッヒは一つの決心をした。

翌朝、身支度を整えながら、ルードヴィッヒはジョセフィーヌに告げた。

「キャッツバーグ卿との、交渉に応じる」と

咎めようとするジョセフィーヌに

「君をここまで追い詰めたのは、逃げ回っていた私の原因だ。これ以上君を苦しめたくない。ただ、私も言うべき事は言う、それが君の父を怒らせる事になってもだ。だからジョセフィーヌ、君を家まで送ろう。そして、正式に交渉と挨拶に行く」

その言葉にジョセフィーヌの顔は明るくなり、嬉し涙を流してルードヴィッヒに抱きついてきた。
寄せられた彼女の頬は温かく柔らかで、ルードヴィッヒは心の中で呟いた。

(手に入るか…私の太陽…)


夕刻。ルードヴィッヒとジョセフィーヌは、キャッツバーグ家を訪れた。

「君は、部屋で待っていて欲しい。交渉は私だけで行う」
「でも…」
「大丈夫」

頬に軽く口付け、一人キャッツバーグの待つ2階の書斎へと向かった。
書斎に入ると、奥の机に座っていたキャッツバーグ卿が腰を上げる。
その様相はかなりやつれていて、落ち窪んだ眼だけがぎらついていた。

「来てくれたか…あの壷は…?」

ルードヴィッヒは大股に歩み寄り、キャッツバーグ卿の前に立つと、厳しい眼で見下ろした。

「欲望に、満ちた眼か…」
「……」

怒りを抑えた低い声に、キャッツバーグ卿の背が冷たくなる。

「今の貴様の眼こそ、その言葉が当てはまる…そうだろう?」
「な…」

ルードヴィッヒは両の拳を強く握り、腹の底に力を込めると、踵を強く床に打ち付ける。
その音に、キャッツバーグの背が震えた。

「我がルードヴィッヒ家は、プロイセンの時代より国家と国民ためにその命を掛けて戦って来た!!銃口を向けられても怯む事無く使命を全うせよ、それが一族の教えだ。貴族の特権なき時代になってもその名を継ぐ理由は、我らが祖先の勇気ある魂を絶やさぬため!!
貴様が莫大な富を重ねられているのは、国家を護る者が前線に立ってこそ成り立つ。その血統を見下す事など許されると思うか!!」

眼下の者を睨みつける目は、その奥に青白い炎すら見える。

「この8代当主、アドルフ・フォン・ルードヴィッヒ、改めて貴様に問う。我が血統を蔑んだ事に、いかな償いと名誉の回復を考えているか?」

「あ…」

キャッツバーグは、かすれた声を出して、自分を見下ろす男の姿に震撼した。
この眼は…人の上に立つ眼だと。
いずれ、近い将来、確実に
「帝王」になる者だと確信した。
そうすれば、愛娘も人の上に立つ存在になる。

「分かった…」

キャッツバーグは、がくりと頭を垂れて、かすれた声で語った。

「我が財産…相続分を親族に譲渡した後…その残りの全てを、ルードヴィッヒ家の栄誉の回復のため、8代当主に、譲ろう」

ルードヴイッヒは表情を崩さず、低い声で続けた。

「それと、ジョセフィーヌ嬢との婚姻も」
「ああ…」

ルードヴィッヒは踵を返し、室内を去ろうとした。
キャッツバーグが呼び止めるように腰を上げる。

「それで…!!」
「後日、正式に契約が成立した際、あの壷はお渡しします。その際に、ジョセフィーヌとの婚約も行います」

そう言って、後ろを振り返らずに書斎から出た。
階段を降りて来ると、その足音に気付いたのか、ジョセフィーヌが部屋から出て来た。

「ルードヴィッヒ、大丈夫だったの?!」
「ああ、交渉は成立した。君との縁談も認めてもらったよ」

ジョセフィーヌは一度大きく目を見開くと、その瞳から大粒の涙を流して、ルードヴィッヒに縋りついた。

「嬉しい…!」
「ああでも、君の父上に大分失礼な事を言ってしまった事は…申し訳ない」
「いいの。きっとまた貴方を怒らせてしまったのでしょうから。ね、ルードヴィッヒ」
「ん?」
「外は大分冷えているわ、良かったら泊まっていって」
「いや、論文の仕上げもあるから、今日は戻ろう」

不安げなジョセフィーヌの頬を撫で、静かな声で告げた。

「次に来るとき、君に正式に婚約を申し出る」
「ルードヴィッヒ!」
「だから、もう少しだけ待っていて欲しい」

彼女は安堵の笑みで頷き、ルードヴイッヒは邸宅を後にした。

これで、全てが上手く行くはずだった。

レマン湖畔の別荘の一室。
ルードヴィッヒは窓際の時計と壷を見つめ、ワインを傾けた。

大学に在籍から2年目、自分の論文を見て興味が沸いたと、ある企業からコンタクトがあった。
違法性のあるビッグマネーを動かす可能性があると、そのための武力行使もありえると、但し莫大な収入を得る事が出来ると
そんな誘いをしてきた、黒い服の男達。

非常に興味はあったが、自分のような若造は手足として使われる事も予想がついた。
だが、キャッツバーグ家の資産を手に入れられれば、その財力で力関係は有利に運ぶと考えもした。
裏で暗躍する組織に、真っ向から対抗し我が物にする財力が、もう時期手に入る。

そう、考えていた。

その時には、自分は闇の住人達と関わり、戦っていくだろう。
傍らに、柔らかな日差しの太陽があれば、乗り越えられると思った。

(ジョセフィーヌ…)

私の側で闇を照らす、唯一の太陽。
私と共に頂点に昇り、妃として君臨するのにふさわしい、高貴な美貌。

あと少しで、手に入るはずだった。

眼前に広がるレマンには、満月に近い形の月がその姿を映し、揺らめいて輝く。
ルードヴィッヒは窓に歩み寄り、窓枠に寄りかかりながら水上の月明かりを目にする。
その瞳には、虚ろな空しさが漂っていた。


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